<   2010年 05月 ( 31 )   > この月の画像一覧

 

紀氏(きし/きのうじ)と紀古佐美(きのこさみ)

蝦夷征伐の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての武人公家である。

古佐美(こさみ)の紀氏(きし/きのうじ)は、武内宿禰(たけのうちすくね)系の古代豪族の一つで、宿禰の母・影媛(宇遅比女、武内角宿禰の祖母)が紀伊国造(きいくにのみやっこ)家の出であった事から母方の紀姓を息子に名乗らせたとされる。

国造(くにのみやっこ)とは、字のごとくその地方を治めた地方豪族(臣王)で在る事を示し、紀伊国造(きいくにのみやっこ)は即ち紀伊国の国主を意味している。

紀氏(きし/きのうじ)は、古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが廷臣や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていた。

しかし七百八十九年(延暦八年)、ヒタカミ(日高見国)蝦夷の役で桓武天皇に命じられて征夷将軍として出撃した紀古佐美(きのこさみ)は、アテルイ(阿弖流為)の反撃に合い敗退して都に逃げ帰り、敗北の責任を問われて征夷将軍の位を剥奪された。

その敗戦後を受けてヒタカミ(日高見国)攻略に成功し、初代・征夷大将軍に出世したのが坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。


渡来氏族に、鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれた蝦夷(エミシ)族にしてみれば、ヤマト王権桓武天皇こそ鬼そのものだった。

そしてその手先が、征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)だった。


平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めて来るに連れて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降の紀氏(きし/きのうじ)は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無く成った。

紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。

紀氏(きし/きのうじ)では、平安期・九百五年(延喜五年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した歌人の紀貫之(きのつらゆき)が有名である。

氏族・紀氏(きし/きのうじ)の長は紀伊国造(きいくにのみやっこ)を称し、現在に至るまで日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。

紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、品川氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図の可能性)、などが挙げられる。


桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役】に続く。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

関連記事
征夷大将軍と幕府】に飛ぶ。
切捨て御免のルーツ】に飛ぶ。

第一巻の二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-21 00:56 | Comments(0)  

臣籍降下(しんせきこうか)

帝の子(親王)は代々多数存在し世継ぎは皇太子を称して次の帝となる事に備えるが、そこから外れた者は帝の代が代われば王族(皇族)と成って「王」を名乗る。

しかし、そう何代も「王」を名乗っていつまでも「王族(皇族)」と言う訳には行かないから臣籍降下(しんせきこうか)をする事に成るのだが、その時に賜姓(しせい/たまわりせい)をして「賜姓降下(しせいこうか)」をする慣わしがある。

王族(皇族)としての賜姓(しせい/たまわりせい)で有名なのは葛城王(かつらぎおう)、賜姓降下(しせいこうか)で有名なのは桓武帝・高望王(たかもちおう)流れの「平氏流」、歴代天皇が皇子に賜姓(しせい)した「源氏流」がある。

源氏流に関しては、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、正親町源氏などがある。

中でも嵯峨源氏流には、現代に於いて人口百十五万を数え五位にランクインする渡辺氏(わたなべうじ)の摂津・渡辺綱(わたなべのつな/源頼光四天王)、肥前・松浦氏(まつらうじ)、筑後・蒲池氏(かまちうじ)、常陸・源護(みなもとのまもる/将門の乱鎮圧)などの有名どころを排出している。

武門として名を成した清和源氏流は、初代・経基(つねもと)流を始めとして清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏など清和源氏だけで二十一流がある。

その清和源氏よりも格が高いのが村上源氏・師房(もろふさ)流で、村上帝・第七皇子の具平親王の子で藤原頼通の猶子となった右大臣・源師房(みなもとのもろふさ)に発し、鎌倉期の源通親(みなもとのみちちか/土御門通親)南北朝期北畠親房(きたばたけちかふさ)、幕末の討幕派公家・岩倉具視(いわくらともみ)も村上源氏の支流である。

尚、播磨国赤松を名字の地とする赤松氏もまた村上源氏季房流と自称し、名和長年も村上源氏雅兼流と自称している。

更に村上源氏と自称する赤松満則流を、奥三河の作手城主(奥平氏)の奥平貞能・奥平信昌父子も称している。

瀬戸内海で活動した村上水軍は、河内源氏の庶流・信濃村上氏を起源とする説、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国説、そして村上源氏説がある。

名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)と名前】に戻る。

詳しくは【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。

関連記事
皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-20 00:14 | Comments(0)  

名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)と名前 その(二)

名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)と名前 その(一)】に戻る。

本来の「姓(カバネ)」は、古代の氏族を政治的分類・格付けしたもので、職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)、地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などである。

しかし、時代が下がるに連れて姓(かばね)は本来の意味を失い、別の意味に変わって「氏」の同意語や元の血筋を示す意味と成った。

その元の血筋を示すと言う用法の「姓」が、平安中期頃から始まった「藤原姓の工藤氏」、「平姓の村岡氏」、「平姓の北条氏」、「源姓の足利氏」、「源姓の新田氏」と言う様に「氏」が細分化された結果、古代の「氏」にあたるものを「姓」と呼ぶようになったのである。

平安中期から始まっていたが、氏族の多くは源氏・平氏藤原氏橘氏を名乗る者が圧倒的に多くなり、「藤原殿」と姓で呼んでは混同混乱する。

それで氏名(うじな)乗りではなく、領地を意味する地名である名字(みょうじ・苗字/なえあざ)を名乗ったり、官職名などと組み合わせて称するようになり、佐藤氏(さとううじ)の様に、官職・左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官)の藤原氏の略だったり、佐野の藤原氏や佐渡の藤原氏などの地名と組み合わせた略だったりとその由来がある。

鎌倉期に入ると将軍でさえ「鎌倉殿」と呼ぶ時代で、つまり配下の御家人達も「**殿」と呼ばれる称する習慣になり、正式な氏姓である源氏・平氏・藤原氏・橘氏は常用されなくなる。

つまりややこしい事に、言わば「姓」と「名字(みょうじ・苗字/なえあざ)」と「通称」と「実名」が用いられ、例えば清和源氏・土岐頼国明智流を自称する坂本龍馬(さかもとりょうま)は、明智流が正しければ姓は源、苗字は坂本、通称が龍馬、実名が直柔(なおなり)と言う事に成る。

ついでに名前のルーツを付け加えると、後に町民や農民と言った庶民にも名前に用いられた「衛門(えもん)に兵衛(べぇ)」の謂れは、元々御所の内裏(だいり)の内外を守る衛門(えいもん)や兵衛(へいえい)が内裏(だいり)の左右に在る役所名・役名をかざした武士の通称から発祥したものである。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)と組ませて名乗ったもので、右衛門・左衛門、伊右衛門、茂右衛門、安右衛門、杢右衛門、宇左衛門、宇兵衛、安兵衛、茂兵衛などがあり、苗字(なえあざ)にそれを組ませて忠臣蔵の堀部安兵衛(ほりべやすべい)と言う具合になる。

それが商家の当主にも使用され、町民や農民と言った庶民にも広がって当時名前の多数派を占めている。
また、ここで律令制に於ける官職名を紹介する。

何故ならば官職名が武人の名前に採用され、時代が下がるとその官職名が庶民にまで広がったからである。

官職は、部署ごとに「省」に於いては卿(かみ)、輔(すけ)、丞(じょう)、録(さかん)、「寮」に於いては頭(かみ)、助(すけ)、允(じょう)、属(さかん)がある。

また武官職は、左衛門府・右衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府の六衛府があり、「近衛府」に於いては大将(かみ)、中将・少将(すけ)、将監(じょう)、将曹(さかん)、「兵衛府」に於いては督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)となる。

そして地方の官職は、「国司」於いて守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)である。

その内の、「輔(すけ)」や「助(すけ)」に「介(すけ)」、「佐(すけ)」、「丞(じょう)」や「允(じょう)」などが好んで名前に使われ、一部は現代まで続いている。

今に成っての現代人には実感が湧かないと思うが、この物語の冒頭で記述した様に氏姓の支配体制は明治維新まで続いていた。

そして明治維新後に制定された政府発布の戸籍法(壬申戸籍 /じんしんこせき)に拠り地方豪族にあやかって創氏した者も多くいた為、使用されている氏姓がその出自を顕すものとは限らないのである。

臣籍降下(しんせきこうか)】に続く。
名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)と名前 その(一)】に戻る。

詳しくは【名字のルーツと氏姓の歴史】に飛ぶ。

関連記事
公家(殿上人)の家名一覧】に飛ぶ。

単一日本民族の成立過程大略】に飛ぶ。
名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-19 03:36 | Comments(0)  

名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)と名前 その(一)

現在の氏名の元となった姓は、古代日本に於ける氏姓制度(しせいせいど)から始まっている。

古代日本に於いて、中央貴族や地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より地位を表す氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度を氏姓制度(しせいせいど)と呼ぶ。

五世紀頃から始まったその制度は「氏姓制(ウヂ・カバネせい)」とも言い、「氏(ウヂ)・姓(カバネ)」を音読して「氏姓(しせい)制」とも言う。

大化の改新後、大和朝廷(ヤマト王権)が律令国家の形成に及ぶと、戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)はかつての部民(べみん/渡来部族)、つまり百姓階層にまで拡大され全ての階層の国家身分を表示するものとなった。

但しこの戸籍制に拠って「大半が氏姓(ウヂカバネ)を有した」と解されるのは誤解で、該当者は実質「総人口の一割程度だった」と推測される。

氏ではない非征服部族の良民蝦夷の扱いは、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の集団だった。

非征服部族の良民蝦夷は、氏を持たない事でその身分が土地に固定し、その土地の附帯的な存在に位置する隷属身分だったのである。

実はこの「村里集落が一つの共同体単位」が、それ以後我が国の庶民に永く続く「村落共同体」の「共生社会意識」を育てた最初の出来事だった。

我が国の大衆社会に育ったこの特異な「村落共同体」の「共生社会意識」については、この物語の後半で詳しく記す事にするので、そこまで是非読み進めて欲しい。

千八百六十九年(明治二年)、旧藩主が自発的に版(土地)・籍を明治天皇に返上した事を「版籍奉還」と言うが、この版籍奉還よく見ると「籍」つまり「人民」を「旧藩主が天皇に返した」と言う意味で、概念上、人民は「藩主の持ち物」だった。

この考え方が、とりもなおさず征服、非征服時代の考え方がそのまま存在していた事実を示した事に成る。

公家や神官、武士と違い、彼ら民人は村(居住地)の所属であり、その土地の統治者の所属だった。

村(集落・居住地)の名が、一体化した村人の氏姓(うじかばね)の代わりだった。

つまり氏姓(うじかばね)の代わり、土地の名に支配者の名(苗字)がかざされ、「大田村(太田氏が所有する)のゴンベイ」と言う表記になる。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)は氏姓を持つ土地支配者の名字(なあざ)、つまり土地の名であり村長(むらおさ)の別名「名主(なぬし)」の語源は、ここから来ている。

この名字(なあざ)の由来は、平安期に起こった武士の台頭と名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)の成立に拠るものである。

下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となったからである。

その後町が形成されたが、町人も「**河岸のタロ吉、**辻のジロ吉」で、氏(うじ)姓(かばね)は無い。

百姓は氏族、農民は民人が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

同様に、町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人が、本来の町民だった。

町家に在って名字(みょうじ)の他に他に通用したのは、大店(おおだな)商家の屋号が精々である。

この身分の線引き、かなり時代が下がると一部の例外として士分に取り立てられ、「氏を名乗る者もいた」のだが、あくまでもこの原則は明治維新まで変わる事は無かった。

名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)と名前 その(二)】に続く。

詳しくは【名字のルーツと氏姓の歴史】に飛ぶ。

関連記事
臣籍降下】に飛ぶ。
公家(殿上人)の家名一覧】に飛ぶ。

名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-18 23:10 | Comments(0)  

蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺された

歴史の真実が「後ろめたいもの」だと、後ろめたさを感じる方がそれと「別の物語り」を創作して何とか隠そうとする。

例えば、北米大陸の西部開拓史に於けるネイティブアメリカン(アメリカンインデアン)の存在を、米国映画では白人を襲う獰猛な野蛮人として西部劇を大量に制作した。

本来は先住ネイティブアメリカンの土地を、銃と言う強烈な武器で追い出し占拠して勝手に町を創って自分達の国を打ち立てた。

それと同様の「後ろめたいもの」が、縄文人(ネイティブジャパニーズ)の日本列島へ当時最新の武器を携えて渡り来た渡来人が先住縄文人を「獰猛な野蛮人・鬼」に仕立てた鬼伝説である。


渡来氏族が日本列島に遣って来た時、日本列島は平和の民・蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の楽園だった。

そしてその楽園は渡来氏族達に武力で乗っ取られ、平和の民・ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷族)は俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属化され服従を強いられたのだが、その経緯の記録は意図的に消されてほとんど残ってはいない。

これらの古代史に於いて古事記日本書紀に於ける記述以前を日本史では「先史」とされているが、つまり「先史」とは弥生期に到る前の「縄文期」と言う事に成る。

しかしこの「先史」の存在については、古事記日本書紀に於ける天孫降臨伝説とは明らかに合致せず、歴史としての連続性が絶たれてしまっている。

勝手に日本列島にやって来て、先住民族・縄文人(蝦夷族/エミシ族)の土地を武力強奪し、俘囚(ふしゅう)と言う名で隷属させた渡来部族に拠る縄文人(蝦夷族/エミシ族)への迫害を、天武大王(てんむおおきみ/天皇)桓武天皇(かんむてんのう)古事記日本書紀天孫降臨伝説とそれを山深い里までめぐり歩いて喧伝した修験道師に拠って意図的に消し去った。

そしてその後起こった渡来部族・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)と渡来部族・呉族(ごぞく/海洋民族)に拠る覇権争いと誓約(うけい)の痕跡も、古事記・日本書紀の天孫降臨伝説と修験道師に拠って意図的に消し去って永久的な氏族(氏姓制度)支配体制の確立を策した。

代わりに残ったのが、天孫降臨神話と多くの脚色された諸伝説で、それは陰陽道の修験山伏達に拠って全国に広がった。

伝説には、隠された未来へのメッセージがある。

修験道師の画策した人身御供伝説は、平和の民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)集落の有力者「長」の娘に渡来氏族の子を身篭らせ、次の「長」に渡来氏族の血が入る「同化過程だった」としたら、現実的である。

つまり蝦夷族(えみしぞく)の地・日本列島を乗っ取った事実を覆い隠す目的で、壮大な創作、古事記・日本書紀は編纂された。

しかし天孫降臨伝説を建前とする渡来部族(氏族)勢力に武力迫害の事実は似合わないから、その秘密はこの国にとって永い間必要だった事かも知れない。

その根底に在る姿勢は「古文書に記載されている」ではなく、歴史を「いつ頃何の目的が在って誰が始めたものか?」と言う視点で捉えるべきである。

つまり物事の始まりは、信仰にしても習俗にしても最初は何者かの意図が在って始められたものであり、歴史研究者が昔から存在する事を理由に無条件に疑わないのではインテリジェンスが無さ過ぎる。

日本史には虚と実が混在している。

解き明かして見ると触れられたくない日本史の暗部が浮き上がって来た。

まぁ同様の過程を辿った米国に置いても、近頃では後ろめたいのか白人開拓団とインデアン(ネイティブアメリカン)が戦う場面の映画(西部劇)はめっきり創らなくなっている。

つまりアメリカ大陸開拓史の苦労話よりも、他人の土地を勝手に武力強奪した事実を消し去りたいからではないだろうか?

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。

関連記事
鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)】に飛ぶ。
ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷族)の秘密】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。
インディアン(ネイティブアメリカン)の襲撃と鬼退治(おにたいじ)】に飛ぶ。
桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役】に飛ぶ。
単一日本民族の成立過程大略】に飛ぶ。
俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に飛ぶ。
奈良県五條市・幸せを呼ぶ神事・鬼走り(おにばしり)】に飛ぶ。
身分制度と五パーセントの悪魔の犠牲者】に飛ぶ。
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に飛ぶ。
源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】に飛ぶ。
豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に飛ぶ。
桃太郎伝説の誤解と真実】に飛ぶ。
蝦夷(エミシ/先住民)】に飛ぶ。
日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。
「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」を検証する。】に飛ぶ。
権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)】に飛ぶ。
村落に於ける「分かち合いの精神」】に飛ぶ。
切捨て御免のルーツ】に飛ぶ。
ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-17 01:30 | Comments(0)  

鈴木氏(すずきうじ)

鈴木氏(すずきうじ)の血筋は、日本に於いて一位~二位を争う大姓の一つで現在では約二百万人程が名乗り、物部氏族穂積氏の後裔、紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の出自で神主であり武士である。

熊野別当(くまのべっとう)または熊野三山別当(くまのさんざんべっとう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄にあたった役職で、諸大寺や神宮寺、門跡寺院に於いて、別当・門跡などの責任者に近侍した坊官の中に於ける最高の地位である。

鈴木姓は、「もののふ」の語源になった物部氏族の穂積国興の三男・基行が鈴木を称するに始まり、鈴木(苗字/名字)・穂積(ほずみ/氏)物部朝臣(もののべあそみ/姓/カバネ)・基行(もとゆき/名/名前)である。

藤代鈴木氏の源流を辿ると大和国山辺郡穂積が発祥とされる天津神(アマツカミ)や饒速日命(ニイハヤヒ)の後裔が神別氏族として有力豪族の穂積氏ある。

神別氏族・穂積氏の饒速日命(ニイハヤヒ)同祖には物部氏、熊野国造家、采女氏などが在り、源流は古代大和王朝成立に助力した部族王に一致している。

つまり大姓の出自の主流が源平藤橘と称する中で、鈴木姓は穂積を主流としている物部朝臣(もののべあそみ)の後裔なのである。


藤白鈴木家に伝わる系図には、物部氏族の祖・饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が東征して来た神武天皇に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。

そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後にその子孫・穂積国興(ほずみくにおき)の三男・穂積基行(ほずみもとゆき)が分家に際して鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。

鈴木姓は、紀伊国や三河国に小規模な武士団はあるものの、むしろ熊野新宮神職に鈴木氏多く、熊野三山の末社は約三千、六十余州に熊野神社の無い国は無く、「熊野神社勧請で、鈴木姓は全国に広まった」と言われている。

鈴木氏の藤白神社は熊野権現九十九王子社の別格五体王子の一つで、源義経(みなもとよしつね)に仕えた鈴木三郎重家は藤白地頭である。

まぁ、この鈴木三郎重家の行動も突然と言うのでは無く伏線は在った。

鈴木三郎重家の弟・亀井六郎重清は早くから源義経に臣従して一の谷屋島壇ノ浦と処々の戦に軍功建て武名を顕していた。

義経が奥州に落っるに及び、弟の「亀井重清が隋行する」と、兄の藤白・総頭領三郎重家に報じた。

それを聞き、鈴木三郎重家は叔父・七郎重善と共に源義経に随行を決意し、逃避行の難に赴いたが、叔父の七郎重善は三河矢矧駅にて脚の疾(やまい)に罹(かか)り、そこにて休養中に義経主従の高館戦死を聞く。

三河の里人の請うままに「挙母(ころも)の里」の奥なる猿投山に熊野権現を勧請して仕へ、挙母(ころも)の里に住み着いたその子孫を三河・鈴木(挙母・鈴木氏)と言う。

つまり脚の疾(やまい)の為に三河の地に留まった重家の叔父・鈴木七郎重善が三河鈴木党の祖となり「松平家臣となった」と言う謂れが三河鈴木家にはある。

その三河鈴木家と三河松平家には、(江戸幕府を開いた徳川氏の母体)の庶宗家である松平太郎左衛門家の家紋が藤輪に三つ葉葵、三河鈴木氏の家紋は藤である所から、三河松平氏も元は鈴木党で「松平の地名を称した」と言う異説もあるほど、両家は深く関わっていたらしい。

実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承に於いて、賀茂・葛城家と鈴木家はその関わる内容に重複が見られる。

すなわち熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としているが、その熊の権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが御神鳥・八咫鳥(やたがらす)である。

葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる、牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実で、すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。

また江戸幕府成立後、水戸藩徳川家に於いて鈴木氏は破格の待遇で水戸徳川家の親族となり、あらたな大名家の創設にも血縁として関わる経緯の謎を持っている。

ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。

つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。

しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか?

熊野神社・鈴木姓は紀伊国名草郡藤白浦が本拠地で、諸国の鈴木氏は「この藤白・鈴木氏流より枝分かれた」と伝えられ、戦国時代、鉄砲三千丁を持って傭兵集団雑賀衆を指揮し、最後は一向宗・顕如(れんにょ)上人に味方して織田信長と石山合戦を戦った猛将・雑賀孫市(鈴木重意/しげおき)もこの白藤鈴木氏流である。

熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。

また鈴木姓を名乗る中には、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらひでさと)を祖とする藤姓秀郷流鈴木氏も存在する。

尚、鈴木姓に関しては、紀伊白藤系鈴木氏として全国に神官として土着したり、また雑賀鈴木氏の庶流も全国に散った為に、明治維新後に制定された政府発布の戸籍法(壬申戸籍 /じんしんこせき)に拠り地方の神職や有力土豪にあやかって創氏した者も多くいた。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

関連記事
ニギハヤヒ命(にぎはやひのみこと)】に飛ぶ。
「もののふ=武士」の語源と鈴木氏】に飛ぶ。
三河鈴木家】に飛ぶ。
鈴木重家(すずきしげいえ)】に飛ぶ。
鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)】に飛ぶ。
松平忠輝(まつだいらただてる)と浜松・旧鈴木家
鈴木(一蔵)重康(すずき(いちぞう)しげやす)】に飛ぶ。
水戸黄門の真実
松平頼重(まつだいらよりしげ)・生い立ちの謎】に飛ぶ。
水戸藩重臣・雑賀(さいが/鈴木)家の謎】に飛ぶ。
名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
第三巻】に飛ぶ。
第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-16 00:12 | Comments(0)  

工藤氏(くどううじ)・伊藤氏(いとううじ)

伊藤氏(伊東氏を含む)は全国約百十万人、六位の大姓である。

藤原南家流工藤氏は、八百五十二年(仁寿八年)当時の祖・藤原為憲(くどうためのり)の官職が「木工助」であった為「工藤大夫」と称した工藤氏を源流とする。

その後、為憲流工藤氏の一部子孫が駿河に移住した駿河工藤氏に対して、東伊豆に移動した工藤氏の子孫が「伊豆工藤氏」と称し、この「伊豆工藤氏」の一部が後に「伊藤(伊東)氏」となった。

伊豆工藤氏からの分家は狩野氏、伊東氏、河津氏など夫々(それぞれ)の地名を苗字とするようになり、総領家からは源頼朝(みなもとよりとも)の鎌倉幕府成立に助勢して有力御家人に取り立てられた工藤祐経(くどうすけつね)を輩出し、伊東氏(いとううじ)に転じた伊東祐親(いとうすけちか)は平家側に廻って滅亡した。

しかし祐経流伊豆工藤氏が九州日向の地に地頭職を得た事からその子孫が南北朝時代に日向に移住し土着して伊東氏(いとううじ)を名乗って南九州に勢力を広げ、周囲の大友氏島津氏と抗争を繰り返した。

また駿河工藤氏からは、代々駿河守を勤めた受領系の豪族・工藤行政(くどういくまさ)と言う人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に二階堂氏を称し、拠って二階堂氏も源流を藤原南家流に同じくする。

尚、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。

別の藤姓伊藤氏には、藤原秀郷(ふじわらひでさと)の後裔、佐藤公清(ふじわらのきみきよ)の曾孫・佐藤基景(さとうもとかげ)が伊勢国に領地を得て、「伊勢の藤原」を意味する伊藤基景を名乗った事に由来する秀郷流伊藤氏も在る。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

藤原南家・工藤流関連武将記事
吉川氏(きっかわうじ)】に飛ぶ。
仁田氏(にったうじ)】に飛ぶ。
工藤祐経(くどうすけつね)】に飛ぶ。
伊東祐親(いとうすけちか)】に飛ぶ。
名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-15 00:23 | Comments(0)  

藤原利仁(ふじわらとしひと)

藤原利仁(ふじわらのとしひと)は、平安中期の代表的な武人として伝説化され多くの説話が残され、藤原秀郷(ふじわらひでさと)と並んで藤原氏の武家社会への進出を象徴する人物と言える。

利仁(としひと)の家は藤原北家魚名系流で、祖父・藤原高房(ふじわらのたかふさ)は受領を歴任した他、盗賊の取締りで名を上げ、父は中納言・藤原山蔭の同母兄弟にあたる民部卿・藤原時長(ふじわらのときなが)である。

藤原利仁(ふじわらのとしひと)左近将監などを経て、九百十一年(延喜十一年)上野介となり、翌年に上総介に任じられた他下総介や武蔵守など坂東(関東)の国司を歴任する。

その間の九百十五年(延喜十五年)に、利仁(としひと)は下野国高蔵山で貢調(こうちょう/貢物)を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめてこの年に鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であった。

利仁(としひと)の後裔を称する氏族は多く、利仁(としひと)次男・藤原叙用(ふじわらののぶもち)が伊勢神宮斎宮頭(さいぐうのかみ)を務め、「斎宮頭(さいぐうのかみ)の藤原=斎藤」を名乗って斎藤氏の祖となる。

その斎藤叙用(さいとうのぶもち)の孫・斎藤忠頼(さいとうただより)が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、利仁流・牧野氏の祖となり、また加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。

同じく叙用(のぶもち)の孫・斎藤為時(さいとうためとき)の家系からは吉田氏、前田氏、斎藤尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出た他、斎藤重光から加藤氏が出、加藤氏は鎌倉幕府の有力御家人に成り、美濃国・遠山荘を領有した事から遠山氏が出る。

尚忠流・美濃斎藤氏は美濃守護・土岐氏の守護代を勤めた後名跡を斎藤道三に奪われ、道三は下克上で土岐氏から美濃国を奪って戦国大名に伸し上った。

藤原北家・利仁流関連武将記事
斉藤氏(さいとううじ)】に飛ぶ。
加藤氏(かとううじ)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-14 00:11 | Comments(0)  

藤原秀郷(ふじわらひでさと)

俵藤太(田原藤太/たわらのとうだ・たわとうた)の通称で知られる藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は在・下野国の官職・掾(じょう)を任ずる下級官・藤原村雄の子で、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔として原初の武門(武士)に成った平安中期の武将である。

藤太は藤原氏の長・太郎の意味であるが、この通称は秀郷(ひでさと)の武勇を伝説化した百足退治伝説や百目鬼伝説などの脚色を因とするのが妥当である。

秀郷(ひでさと)の出自については、「下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」と言う説もあるが、この血統重視する時代に幾ら朝廷が将門(まさかど)の乱に窮したとは言え、平氏流の平貞盛(たいらのさだもり)を差し置いて押領使に任じるだろうか?

つまり末葉では在ったが、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔である方がこの際は自然である。

秀郷(ひでさと)は、九百三十九年(天慶二年)平将門(たいらのまさかど)天慶の乱と呼ばれる兵を挙げて坂東(関東)八か国を征圧すると、平貞盛と連合し、翌九百四十年(天慶三年)二月に将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定し名を挙げる。

平将門(たいらのまさかど)追討時、藤原秀郷(ふじわらひでさと)は乱平定の直前に「下野国・掾(じょう)兼押領使に任ぜられた」とされる歴史学者が複数居り、秀郷(ひでさと)無役説が主流だが、将門(まさかど)の乱平定の功により従四位下に叙され下野守に任じられ、さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)、基は下野国の掾(じょう)であったが平将門(たいらのまさかど)追討の功により、秀郷(ひでさと)は従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大して源氏流平氏流と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。

藤原北家・秀郷流関連武将記事
比企氏(ひきうじ)】に飛ぶ。
大友氏(おおともうじ)】に飛ぶ。
奥州・藤原家】に飛ぶ。
結城氏(ゆうきうじ)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-13 00:08 | Comments(0)  

佐藤氏(さとううじ)

佐藤氏(さとううじ)は、現在では約二百万人程が名乗り日本に於いて一位~二位を争う大姓の一つで、斉藤氏工藤氏加藤氏らと並ぶ藤姓由来の姓である。

その由来は諸説在り、官職・左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官)の藤原氏の略だったり、佐野の藤原氏や佐渡の藤原氏などの地名と組み合わせた略だったりと他の藤姓由来と共通している。

佐藤氏(さとううじ)は藤原氏系流として原初の武門(武士)と成った藤原北家魚名流の下級貴族・藤原秀郷(ふじわらひでさと)をその源流に見る。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)の五男・藤原千常(ふじわらのちづね)従四位下・鎮守府将軍を始祖とする系図に信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)が在る。

信夫佐藤とは、他の佐藤氏と区別する際、信夫地方(現・福島県福島市)を出自・本拠地とした事に由来する歴史研究上の一般呼称で、自ら「信夫佐藤と称していた」と言う事実は無い。

その信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)の長者・藤原公清(ふじわらのきみきよ)は祖先の藤原千常以来代々左衛門府の判官・左衛門尉の官職に就いているからとする説、 公清(きみきよ)が佐渡守にも任官されているので「佐渡」の「藤原」とする説、本宗家・藤原氏の補佐の意味する「佐・(すけ)」で佐藤とも言う説もあり、どちらから取ったかは断定しがたい。

治承・寿永の乱で、源義経(みなもとよしつね)の郎党として活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟もこの佐藤氏の出身で、その父・佐藤基治(元治)は信夫(福島県福島市)飯坂温泉付近に荘園を所領し「信夫荘司・湯荘司と称した」と伝えられている。

信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)一族は、源頼朝(みなもとよりとも)の奥州討伐の際には石那坂に陣を敷き防戦し、奥州藤原氏滅亡後佐藤氏は赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていたが南北朝期に伊勢へ移住する一方、一部が故地・信夫周辺に残り、相馬氏、佐竹氏に仕えて永らえ、幕末には陸奥白河藩の代官となっている。

信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)の子孫は全国に存在し、元内閣総理大臣・岸信介、佐藤栄作兄弟を輩出した長州藩士・佐藤家もその信夫佐藤氏の子孫を自称して、それぞれの諸家に古系図が現存する。

尚、各地に土着した武門の内藤氏・武藤氏・近藤氏・首藤氏なども信夫佐藤氏(しのぶさとううじ)の系流とされる他、藤姓に関しては明治維新後に制定された政府発布の戸籍法(壬申戸籍 /じんしんこせき)に拠り地方豪族にあやかって創氏した者も多くいた。

藤原北家・秀郷流関連武将記事
比企氏(ひきうじ)】に飛ぶ。
大友氏(おおともうじ)】に飛ぶ。
奥州・藤原家】に飛ぶ。
結城氏(ゆうきうじ)】に飛ぶ。

藤原北家・利仁流関連武将記事
斉藤氏(さいとううじ)】に飛ぶ。
加藤氏(かとううじ)】に飛ぶ。

藤原南家・工藤流関連武将記事
工藤氏(くどううじ)】に飛ぶ。
天野氏(あまのうじ)】に飛ぶ。
安達・足立氏(あだちうじ)】に飛ぶ。
伊東・伊藤氏(いとううじ)】に飛ぶ。
吉川氏(きっかわうじ)】に飛ぶ。
仁田氏(にったうじ)】に飛ぶ。

名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】に飛ぶ。

第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2010-05-12 00:35 | Comments(1)