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金地院崇伝(こんちいんすうでん)

将軍職を二代・徳川秀忠に譲り、隠居して駿府に在った徳川家康は、外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)は徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり外交関係の書記を務め、やがて幕政にも参加するようになる。

閑室元佶や板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係する。

崇伝(すうでん)は、徳川家のブレーンとして豊臣家との決着の戦いである大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与している。

その後の崇伝(すうでん)は、千六百十六年(元和二年)家康の死去に拠る神号を巡り南光坊天海と争い、天海(てんかい)は「権現」を、崇伝は「明神」として祀る事を主張する。

実は崇伝(すうでん)の主張には根拠があり、徳川家の公称・源氏流はともかく元の松平家の賀茂流であれば家康の祭祀は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、「明神」が正しいからである。

崇伝(すうでん)は「明神」として祀る事を主張するが、天海(てんかい)は源氏流が征夷大将軍の任命条件であるを持って賀茂流の「明神」は不適切と譲らず、最終的には天海の主張する「権現」に決定する。

これはもしかしたらの話であるが、二代将軍・秀忠、南光坊天海、春日局の三人が実は明智流のトリオで在ったのなら源氏流で、賀茂流の「明神」は強行に反対するから金地院崇伝(こんちいんすうでん)には最初から勝ち目は無かった事になる。

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by mmcjiyodan | 2010-07-21 01:00 | Comments(0)  

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

征夷大将軍(武門の最高位)を朝廷から任ぜられて居た徳川家康は、千六百十三年(慶長十八年)、幕府として「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていた。

これで朝廷が勝手に事を進める事を制限していたのだが、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)はそれを強化改正したものである。

千六百十五年(慶長二十年)に大坂城が落城し豊臣家が滅亡すると、家康はこの年にいよいよ徳川将軍家の長期政権を固める作業に本格着手、朝廷の行動を制約する法的根拠を得る為に漢文体全十七条の禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を朝廷に突き付ける。

大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(慶長十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いで、この戦勝で徳川政権は磐石な物と成る。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、江戸幕府が天皇及び公家に対する関係を確立する為に定めた法令で、禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目とも呼ばれた。

禁中並公家諸法度は、徳川家康が臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)に命じて起草させ、千六百十五年(慶長二十年)七月に、二条城に於いて大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の三名の連署をもって公布され、同時に、武家を統制するために定めた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」も幕府が制定し、公布されている。

この禁中並公家諸法度に拠り、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得、江戸時代の公武関係を規定するものとして江戸期を通じて一切改訂はされなかった。

尚、千六百三十一年(寛永八年)に当時の後水尾上皇主導(幕府は間接関与)で青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進と伴に公家の統制を一層進める為に「若公家衆法度」が制定され、これが禁中並公家諸法度を補完するものとなった。

武家諸法度(ぶけしょはっと)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-07-20 01:17 | Comments(0)  

武家諸法度(ぶけしょはっと)

千六百年(慶長五年)、関ヶ原の戦いに勝利した豊臣政権五大老の筆頭・徳川家康は、朝廷から源氏の長者と征夷大将軍に任命され、南光坊天海(明智光秀)からの助言の下、いよいよ江戸に江戸幕府を構築し始める。

この頃はまだ一大名(六十五万石)程度に小さくされたとは言え豊臣家も存在し、秀吉恩顧の有力大名も多数残っている。

そこで家康は、徳川家の征夷大将軍職の世襲を世に知らしめる為に将軍職と江戸城を徳川秀忠(とくがわひでただ/二代将軍)に譲り、自分は大御所を名乗って駿府城に隠居、二代将軍・秀忠の後ろ盾を任じながら諸将に睨みを利かせる。

駿府に在った家康は、外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が武家を統制するために定めた法令で、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い後に武家諸将から誓紙を取り付けた三ヶ条に十ヶ条を付け加え、二代将軍・徳川秀忠が千六百十五年(慶長二十年)七月に伏見城で発布(元和令)された。

その同じ年の同じ月に、二条城に於いて大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の三名の連署をもって同じく金地院崇伝(こんちいんすうでん)の起草に拠る「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」も公布されている。

十三ヶ条(元和令)だった武家諸法度(ぶけしょはっと)は将軍の交代とともに改訂され、三代将軍・徳川家光が参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文を加え十九ヶ条(寛永令)、五代将軍・徳川綱吉はこの十九ヶ条を諸士法度と統合(天和令)している。

その後、六代将軍・徳川家宣が武家諸法度(ぶけしょはっと)を新井白石に改訂(正徳令)させ、七代将軍・家継に引き継がれたが、八代将軍・徳川吉宗が五代将軍・徳川綱吉が定めた「天和令」に戻して改訂の止め置きを命じ、以後これをもって改訂は行われなくなった。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は制定されたものの、一旦徳川家康が臣従した主家・豊臣家が存在すれば、豊臣家の政権擁立の一定の理由が存在する事になる。

徳川家康は豊臣家との最終決着大坂の役を、謀略・方広寺鐘銘事件を引き起こす事になる。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-07-19 16:24 | Comments(0)  

源頼国(みなもとよりくに)流美濃源氏・土岐氏(ときうじ)

美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。

土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名で、言うまでも無いが源氏は皇統守護の血筋で有る。

美濃国守護・土岐氏(ときうじ)は、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる清和源氏嫡流第三代・摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の子・頼国(よりくに)が美濃国土岐郡に土着する。

頼国(よりくに)が居館を構えて居住した土地の名、「土岐」を取って土岐氏を名乗ったのが土岐氏の始まりである。

平安時代中期の武将で官人だった清和摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の長男・源頼国(みなもとよりくに)が美濃守として赴任、その子孫が美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族である。

土岐氏(ときうじ)は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護大名となり、庶流としては平安期から鎌倉期にかけて明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、浅野氏など多くを輩出している。

戦国期、下克上の時代に美濃国守護・土岐氏の棟梁は土岐盛頼(ときもりより)だった。

その弟・土岐頼芸(ときよりのり)の所に、重臣・長井弥二郎の伝(つて)で北面の武士・松波氏の松波新左衛門尉(山崎屋庄五郎)が仕官する。

松波(山崎屋)庄五郎は長井家の重臣・西村家の家督を継ぎ西村新左衛門尉を名乗り、その後長井家と西村新左衛門尉は主君・土岐頼芸(ときよりのり)を擁して主家の守護職・土岐盛頼(ときもりより)を攻め、これを越前に追放する。

主君・土岐頼芸に守護職を奪い取らせた功に拠り西村新左衛門尉は、美濃国・本巣郡を与えられて領有、国人領主と成る。

この政変で西村新左衛門尉の恩人・長井利安は守護代に出世したのだが、やがて西村新左衛門尉は長井利安と対立、西村新左衛門尉は長井家当主・利安と妻を殺害、家系を横領して美濃守護代・長井新九朗利政を名乗る。

美濃守護代・長井新九朗利政を名乗って土岐頼芸の重臣と成っていた長井新九朗利政(松波新左衛門尉)の継子・長井左近大夫規秀(道三)は、その能力を認められ土岐頼芸(ときよりのり)に可愛がられた。

その長井左近大夫規秀(道三)がもう一つの守護代家・斉藤家の惣領を討ち殺し、斉藤家の諸職を奪い取って名家・斉藤家を長井左近大夫規秀が継ぎ斉藤右京太夫道三を名乗る。

斉藤右京太夫道三は着々と力を付けると、最後には主君である美濃国主・土岐頼芸(ときよりのり)を武力を持って追放し美濃一国を手に入れ、頼芸は尾張へ追放されここに美濃守護としての土岐氏は消滅する。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2010-07-18 01:18 | Comments(0)  

安芸広島藩・浅野家(あきひろしまはん・あさのけ)

浅野氏の家系は清和源氏源頼光(土岐頼光)流土岐氏の庶流で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で鎌倉幕府御家人・土岐光衡(ときみつひら)の次男で判官代・土岐光時(ときみつとき)が土岐郡浅野の地で浅野氏を名乗ったに始まる古い時期からの土岐氏の一族である。

豊臣秀吉の正室・高台院(おね/ねね)の実家は尾張国朝日村郷士・杉原(木下)家で、養家がこの土岐氏庶流・浅野家ある。

北政所として知られる秀吉の正妻「おね(ねね)・高台院」の父親・杉原(木下)定利の出自は、桓武平氏・平貞衡流桑名氏の分流・平光平(杉原光平)を祖とする杉原氏で、土着郷士として杉原ともう一つ木下を名乗る事も在った。

杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先である浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)に養女と預けた娘・おね(ねね)とややの二人の内の一人、姉の方の「おね(ねね)」を、信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。

おね(ねね)の兄弟・家定を始めその家定の嫡男・木下勝俊(若狭国後瀬山城八万石秀吉死去後改易)二男・木下利房(備中足守木下家)、三男・小早川秀秋(筑前小早川家)、四男・木下延俊(豊後日出木下家)など杉原(木下)家一族の全てが藤吉郎(とうきちろう)に臣従している。

おね(ねね)養父家の浅野家からも、妹・ややが浅野家を継ぎ、その婿養子・浅野長政(安井長吉)は甲斐国二十二万石を与えられ豊臣政権の五奉行筆頭まで上り詰めたが「石田三成とは犬猿の仲だった」と伝えられて居る。

芸州広島藩・浅野氏は安芸国一ヵ国と備後国の半分(備後八郡)四十二万六千石を領有した藩で、現在の広島県の大部分にあたる大藩知行である。

芸州広島の地は、元々祖父・毛利元就の代から勢力拡大を続けた毛利氏の本拠地だった。

しかし天下分け目の関が原の戦いの折、中国地方の大半を治める太守として徳川家康の東軍に対抗し、西軍の総大将として参戦し敗戦した当主・毛利輝元が減封され防長二ヵ国(現在の山口県)に押し込められる。

関ヶ原役で東軍(徳川方)に味方して論功行賞を受け、尾張国清洲より安芸・備後二ヵ国の四十九万八千石の太守として入封していた豊臣恩顧の大名・福島正則(ふくしままさのり)が洪水で損壊した広島城を無断改修した罪により武家諸法度違反として改易を受ける。

代わって紀伊国紀州藩より入封したのが浅野氏当主・浅野長晟(あさのながあきら)だった。

浅野長晟(あさのながあきら)の父・浅野長政(あさのながまさ)豊臣秀吉の正室おね(高台院)の義弟に当たり、初代藩主・長晟の二男である第二代藩主・浅野光晟(あさのみつあきら)は徳川家康の外孫に当たり、外様大名ながら松平姓を名乗る事を許されて防長二ヵ国を領有する毛利氏の抑えの役割も担っていた。

つまり浅野長晟(あさのながあきら)の広島入封に関しては、中国地方の太守であたった毛利氏を防長二ヵ国に押し込め、これを可愛がって家康の三女振姫と婚姻させていた長晟(ながあきら)の浅野家に監視させる目的もあった。

その後の安芸広島藩・浅野家は、一族の播磨赤穂藩主・浅野(内匠頭)長矩が後に「忠臣蔵の仇討ち」で有名となる江戸城中で吉良(上野介)義央に対して刃傷に及び、即日改易され切腹となる大事件を起こすなどに見舞われるも連座を逃れて生き残り、明治維新後の廃藩置県まで藩を永らえた。

尚、浅野家の東京移住阻止を目的とする武一騒動が起きて藩は解体されるが、浅野家は侯爵となり華族に列している。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2010-07-17 00:13 | Comments(0)  

城持ち大名(しろもちだいみょう)

江戸幕府の幕藩体制に於いて「城持ち大名」は格式であり、本来は二十万石以上の国持ち外様大名(国主格)か徳川親藩などで十万石以上の準国持ち大名に城持ち(城主)が許され、石高の少ない領主は陣屋と呼ばれる屋敷を城の代わりにしていた。

本来は一国当たり一城持ち大名格が定めなので、美濃・苗木藩(なえきはん)のように所領(知行地)一万石でも「城持ち(城主)」が許される藩も在ったが例外で、所領(知行地)七万石でも陣屋しか許されない藩も在った。

そして徳川御三家の附家老(つけがろう)には、将軍家より派遣された尾張藩の犬山・成瀬家(三万五千石)や今尾・竹腰家(三万石)、紀伊藩の田辺・安藤家(三万八千石)や新宮・水野家(三万五千石)、水戸藩の松岡・中山家(二万五千石)など陪臣の「城主」ながら大名格の待遇を受けて江戸に屋敷を拝領して居た家も在った。

従って国主・城持ち(城主)も陣屋構えでも大名(藩主)には違い無く、城を所有せず実質的には陣屋を構えて居ても格式として城主の格式とされていた城主格の大名も在る為、城持ち大名格は城の所有の有無に関わらない。

また、大々名の陪臣の中には長州藩の岩国・吉川家(六万石)、熊本藩の八代・松井家(三万石)、広島藩の三原・浅野家(三万石)、仙台藩の白石・片倉家(一万八千石)などのように特例で城持ち(城主)が許される事もあるがあくまでも陪臣で城持ち大名としての格式は無い。

そして、城は在っても城主が居ない幕府直轄の国も在り、大阪城、駿府城・甲府城などの城主は将軍なので、大坂城代は譜代大名、駿府城代は旗本、甲府城は甲府勤番支配が旗本の主要ポストとして常時城代が務めて居た。

その外に、大名家に拠っては例外として鳥取藩の米子城代、津藩の伊賀上野城代、徳島藩の洲本城代など「城代」が置かれた支城も認められて世襲も在ったが、格式上では城持ち(城主)ではない。

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by mmcjiyodan | 2010-07-16 00:49 | Comments(0)  

徳川御三家(とくがわごさんけ)

徳川御三家は、徳川将軍家・宗家の後嗣が絶えた時に備え、始祖・徳川家康が宗家存続の為に遺したものとも言われ、宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、実際には老中・大老職が中心となり幕政を合議運営していた。

従って徳川御三家は制度・役職として定められたものでは無く、あくまでも親藩(一門)の最高位の家格として扱われる存在だった。

この事が竹千代(家康)二人説の根拠にも成っているのだが、家康次男で在る筈の結城秀康(秀忠の兄)を祖とする越前・松平家は、松平の姓に復しても当初から徳川姓を名乗る事も宗家存続の役割と格式も与えられていない。

当初将軍家に後嗣が絶えた時は、家康九男・義直を始祖とする尾張徳川家(尾張藩)か家康十男・頼宣を始祖とする紀州徳川家(紀州家・紀州藩)のニ家から養子を出す事になっており、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って競争意識が在った。

御三家に数えられる水戸徳川家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・松平忠長を家祖とする駿河松平家(五十五万石)断絶後の千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家であり、他の二家よりも官位・官職の点では扱いが下で、水戸家から将軍が出たのは、御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した最後の将軍・徳川慶喜(十五代)だけである。

尚、一般に徳川御三家は尾張、紀伊、水戸の三家であると言われているが、駿河松平家の石高五十五万石が水戸家の三十五万石(二十六万石とも)を上回っていた事や、尾張家や紀伊家同様極官が大納言(水戸家は中納言)であった事から当初の御三家は尾張、紀伊、駿河で構成されていたとする説が存在する。

また、実は松平忠長が二代・秀忠の三男では無く家康の実子だった事から二代将軍・秀忠の遠慮と忠長の三代将軍継承に対する不満増長があり、駿河松平家(五十五万石)の僅か一代の断絶に繋がったとする説もある。

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by mmcjiyodan | 2010-07-15 17:17 | Comments(0)  

腹芸(はらげい)の様子見曖昧(ようすみあいまい)文化

基本的に日本人は腹芸や以心伝心が高等と考える人種で、旗色やイエス・ノーを明言せず「様子見曖昧(ようすみあいまい)が徳」と考える文化を持つ人種である。

日本人にとって、「検討します(考えて置きます)」のほとんどは、実質「ノー」の意味である。

従って次に遭った時には「その課題への回答の用意」は無い。

その根底に流れているのが、単一日本民族の成立過程で起こった三つ巴の多民族の地だった事に拠る対立回避の知恵だったからであるが、それ故に誓約(うけい)文化やそこから派生した氏族社会の稚児小姓(ちごこしょう)風習などで信頼関係の担保を構築する術(すべ)を考案した。

しかしお隣の中国では、対・不対(トェ・プトェ/はい・いいえ)や好・不好(ハオ・プハオ/良い・悪い)、米国ではイエス・オア・ノウが意志疎通の基本であるから、次回遭った時に日本の「検討します(考えて置きます)」の回答を請求する。

正に日本の常識は世界の非常識であるが、それを「相手国が理解している」と勝手に思い込んで日本外交は押し通そうとし、他国の信用を失いし続ける愚を犯している。

にも関わらず、仕舞いには「その位の事が何で判らないのだ」と逆に怒り出すのが日本人の世界的評価で、つまり日本人の国際化は、腹芸や以心伝心の意識を持ち続けている間は期待薄である。

まぁ、何処の民族、何処の国家も独善的ではあるから、互いにそれを言い立てても永久に話は噛み合わない。

もし日本と言う我が国が大人の民族・大人の国家なら、まずは己(おのれ)から改めるべきではないだろうか?

それとも今まで通り「日本の固有文化なのだから何が悪い」と、妖しげな建前を振りかざし続ける民族・国家なのだろうか?

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by mmcjiyodan | 2010-07-14 22:01 | Comments(0)  

脇屋義助(わきやよしすけ)

鎌倉時代末期)から南北朝時代)初期の武将・脇屋義助(わきやよしすけ)は、河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする上野源氏(新田氏)の出自である。

新田義貞(にったよしさだ)の弟で、新田朝氏(にったあさうじ)の次男に当たる。

名字の「脇屋」は、居住して居た群馬県太田市中央部に位置する脇屋(わきや/現・脇屋町/わきやちょう)の地名(町名)が由来で脇屋氏の初代が義助(よしすけ)である。

脇屋義助(わきやよしすけ)は、千三百三十一年(元弘元年)にひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていた兄・新田義貞とともに新田荘にて後醍醐天皇元弘の乱(げんこうのらん)に応じて鎌倉倒幕の挙兵し、鎌倉を攻める。

執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、千三百三十三年(元弘三年)に諸将の論功行賞に拠って義助(よしすけ)は正五位下に叙位され左衛門佐に任官する。

同年、一時期は駿河国守護にもなり、千三百三十五年(建武二年)の足利尊氏の蜂起以後の南北朝期兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任し、この頃設置された武者所の構成員(同所五番)と成り、その後も義助(よしすけ)は常に兄・義貞と行動をともにして各地で転戦した。

千三百三十六年(延元元年/建武三年)、脇屋義助(わきやよしすけ)は南朝・刑部卿に転任する。

南北両朝の戦闘が続き、千三百三十八年(延元三年/建武五年)に兄・義貞が越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で不慮の戦死をすると義助(よしすけ)は越前国の宮方の指揮を引き継ぎ、翌年には従四位下に昇叙する。

義助(よしすけ)は兄・義貞亡き後の南朝北陸方面軍の軍勢をまとめて越前国黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍(足利方)に敗れて越前国から退いた。

千三百四十二年(康永元年/興国三年)、脇屋義助(わきやよしすけ)は中国・四国方面の南朝総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国の国府(現在の今治市)・ 国分山(唐子山)城で突如発病し、そのまま病没する。

新田義貞(にったよしさだ)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-07-13 17:27 | Comments(0)  

苗木遠山氏(なえきとうやまうじ)・苗木藩(なえきはん)

美濃国苗木城(岐阜県恵那郡)の城主・遠山友忠(とおやまともただ)の系流を苗木遠山氏(なえきとうやまうじ)と言う。

鎌倉御家人藤原北家魚名流・藤原利仁流加藤氏・加藤景廉(かとうかげかど)が美濃国・遠山荘(現・岐阜県恵那市岩村町)の地頭に補任された事に始まる遠山氏(とうやまうじ)の分流である。

美濃国に於ける「遠山七家」の内の、苗木遠山氏は明知遠山氏(あけちとうやまうじ)、岩村遠山氏(いわむらとうやまうじ/遠山氏惣領)と並んで「美濃三遠山」と呼ばれ特に勢力が強かった。

遠山友忠(とおやまともただ)は、父・遠山友勝の後を継いで飯羽間城主、阿照城主を経て、主城・苗木城の城主となる。

友忠(ともただ)の正室は織田信長の姪または妹と伝えられるが詳細は不明である。

いずれにしても戦国期、織田家と苗木遠山氏は縁戚関係にあり、血縁から美濃勢としては早くから織田信長の尾張織田家の信長に従っていた。

千五百七十二年(元亀三年)に甲斐の武田信玄が西上を開始すると、友忠(ともただ)率いる苗木遠山勢は信長の命令で東美濃に侵攻して来た秋山信友(晴近)と戦っている。

苗木遠山氏・遠山友忠(とおやまともただ)は、本家筋の岩村城主・岩村遠山氏が武田氏に降伏し周囲を武田方に囲まれる情況下でも織田氏方に留まり続けて苗木城に在った。

岩村遠山氏が武田方に滅ぼされた後も、友忠(とおやまともただ)は織田家重臣・黒母衣衆筆頭の河尻秀隆(かわじりひでたか)の指揮下に入り武田氏に抵抗の局地戦を続ける。

武田氏が大合戦となった長篠の戦いで敗れ、武田家重臣・秋山信友(あきやまのぶとも)が処刑され武田氏が東美濃に於いて影響力を失うまでの間、苗木城は一度も落とされる事無く持ち堪えている。

千五百八十二年(天正十年)の武田征伐の契機となった木曾義昌(きそよしまさ)の内応を織田信忠に取り次いだのは友忠とされ、以後も武田攻めでは木曾氏と共に武田勢と戦っている。

木曾氏(きそうじ)は、南北朝時代から室町時代後期にかけて信濃国南部の木曾谷を領した国人領主で、自称・木曾義仲の子孫を称するが、本姓は藤原秀郷流沼田氏の出自説が有力である。

武田攻めの主力となった徳川家康や同盟織田勢の一郭として武田家の滅亡に与した遠山友忠(とおやまともただ)は、その年に明智光秀が起こした本能寺の変で主君・織田信長を失う不運に遭う。

遠山友忠(とおやまともただ)の三男に遠山友政(とおやまともまさ)が居る。

遠山友政(とおやまともまさ)は、父とともに織田信長に仕え、美濃苗木を所領としていた。

しかし千五百八十三年(天正十一年)、信長没後に羽柴秀吉織田信孝が対立し始めると、友政(ともまさ)ら苗木遠山勢は秀吉から森長可(もりながよし)の指揮下に入るよう命令される。

友忠(ともただ)・友政(ともまさ)親子はこれを拒絶し、徳川氏の支援を受けながら美濃金山城主・森長可と東美濃の覇権をめぐって争ったが敗北し、共に徳川家康を頼って落ち延びた。

友忠(ともただ)は家康の家臣である菅沼定利のもとに身を寄せるもそのまま死去し、苗木遠山氏の家督は子の友政(ともまさ)が継いだ。

遠山友政(とおやまともまさ)は、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いで家康方東軍に与し、別働隊として西軍の河尻秀長の苗木城を攻撃して奪取し、実力で旧領復帰を遂げる。

家康からもこの参戦の功績を認められて、友政(ともまさ)は一万五百石の所領を与えられた。

その後友政(ともまさ)は、大坂の役(冬の陣・夏の陣)にも徳川方として参軍するなど武功を重ねて苗木藩(なえきはん)遠山氏の初代藩主となる。

禄高一万五百石は、徳川幕藩体制下で最小の城持ち大名だったが、慢性の財政難を抱え藩政維持に苦慮しながらも明治維新まで生き残り、最後の藩主・遠山友禄(とおやまともよし第十二代)の時に廃藩置県を迎えている。

遠山氏(とおやまうじ)】に戻る。

注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2010-07-12 22:35 | Comments(0)