中川清秀(なかがわきよひで)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、千五百四十二年(天文十一年)摂津国福井村中河原(現・大阪府茨木市)に生まれた。
本姓は源氏を名乗り、清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子の明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と家系を称した。
清秀(きよひで)の幼名は虎之助、通称は瀬兵衛(せびょうえ)、父は中川重清、母は中川清村(重利)の娘である。
はじめ摂津国人であった池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくると清秀(きよひで)はそれに従った。
だが、後に主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると、清秀(きよひで)は一時信長と敵対する。
千五百七十二年(元亀三年)、同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を白井河原の戦いにて討ち取る。
戦後、清秀(きよひで)は、この戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった。
摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると、清秀(きよひで)は荒木村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。
後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたがうが、千五百七十八年(天正六年)村重が信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)、共に信長に敵対する。
しかし、織田軍が大挙して攻めてくると右近と共に降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った。
その後清秀(きよひで)は、丹羽長秀や池田恒興旗下で転戦する。
千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
千五百八十三年(天正十一年)、清秀(きよひで)は賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦した。
その賤ヶ岳の戦いに於いて清秀(きよひで)は、大岩山砦を右近、三好信吉らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの四十二歳にて戦死した。
子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫、妹は古田重然(織部)室である。また、キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる。
家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
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by mmcjiyodan
| 2017-03-20 15:12
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木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、天照大神(アマテラス)の孫である天孫・ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)の妻とされる。
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)には、石長比売(イワナガヒメ/磐長姫)と言う醜い姉がいた。
そして長寿の神々と比べ、天孫ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)とその子孫の天皇の寿命が神々ほどは長くない理由をこう伝えている。
九州南部に勢力を持っていた隼人族(ポリネシア系縄文人)のオオヤマツミを父に持つ木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、日向国に降臨した天照大神の孫・天孫ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)と、笠沙の岬(鹿児島県川辺郡笠沙町にある野間岬)で出逢い求婚される。
この出会い伝説は、宮崎県、鹿児島県内にも伝説地が存在する。
咲耶(さくや)の父・オオヤマツミはニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)の求婚を喜んで、姉のイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)と共に差し出した。
処が、ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)は醜いイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚する。
オオヤマツミはこれを怒り、
「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけい)を立てたからで、コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」
と告げたとされる。
このイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚するエピソードこそ、天から降臨した天孫(神)と人間である皇統に存在する寿命との矛盾を隠す為の伝説である。
つまり「記紀神話(天孫降臨)」では、天皇の寿命が人間に近い矛盾(むじゅん)の言い訳を「天孫であるニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)がイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を娶らなかったから」と理由付けているのだ。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
◆【性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。
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by mmcjiyodan
| 2017-03-19 16:04
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