三善 康信(みよし の やすのぶ)は、鎌倉幕府の初代問注所執事や鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。
元々三善家は算道の家柄で太政官の書記官役を世襲する下級貴族の出身で、父は三善康光(みよし の やすみつ)、または康久(やすひさ)とされる。
康信 (やすのぶ)は母が源頼朝(みなもと の よりとも)の乳母・(特定は定かでないが、比企尼又は寒河尼又は山内尼)の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に三度京都の情勢を知らせていた。
治承四年(1180年)5月の以仁王(もちひとおう)の挙兵の二ヶ月後、康信( やすのぶ)は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝(よりとも)の挙兵に大きな役割を果たした。
元暦元年(1184年)4月、康信は頼朝(よりとも)から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されこれを承諾した。
頼朝(よりとも)の落馬死後、二代将軍・源頼家(みなもと の よりいえ)の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加する。
承久三年(1221年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元((おおえのひろもと) )の即時出兵論を支持した。
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by mmcjiyodan
| 2020-11-16 12:10
宿老・政所公事奉行・中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。
中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。
宿老・政所別当を務めた大江広元の兄に当たる。
中原親能(なかはらのちかよし)は挙兵以前の源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。
一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、源頼朝が挙兵すると関東に走り頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。
宿老・中原親能(なかはらのちかよし)は三浦大介義明の嫡男で頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。
中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に頼朝弟・源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉幕府では軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任する。
1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。
1186年(文治二年)、頼朝に次女の三幡(さんまん)が誕生すると、親能の妻が乳母に就任する。
1199(建久十年)1月13日に主君・源頼朝が落馬事故で死去し、同年六月三十日、頼朝に次女・三幡(さんまん)が死去したことに伴い親能は出家する。
1189年(文治五年)の奥州征討にも中原親能(なかはらのちかよし)は従軍している。
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by mmcjiyodan
| 2020-11-14 22:43
1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し第二代鎌倉将軍を就任する。
北条政子(ほうじょうまさこ)・北条時政(ほうじょうときまさ)・北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。
同年4月12日、北条時政と北条政子は頼家の訴訟親裁権を停止し、宿老十三人による合議制によることを決定した。
理由は頼朝・嫡男頼家が若年であるとのから執られた非常時措置のようでもあるが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられる。
これは幼少の二代将軍・頼家の源氏政権・に対する北条一族に依る一種のクーデターである。
この決定に反発した頼家は、対抗手段として小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成らの近習衆五人を指名して、この五人に手向かってはならず、この五人でなければ目通りを許さないという決定を下している。
この為。頼家の母・北条政子と政子の父親・頼家の外祖父・宿老・北条時政がはからい初代鎌倉将軍の源頼朝の有力武将鎌倉御家人(かまくらごけにん)十三人よる宿老合議制を初代執権・北条時政を中心に発足させる。
以下合議制のメンバー「宿老達」についてご紹介する。
宿老・北条義時、1205年(元久二年)の畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に北条時政の嫡男・北条義時が二代執権となる。
宿老・政所別当・大江広元は鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家で、将軍・源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担う。
宿老・問注所執事・三善康信は宿敵・平家により伊豆の蛭ヶ小島に流されていた将軍・源頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家で母が頼朝の乳母の妹だった。
宿老・政所公事奉行・ 中原親能 (なかはら の ちかよし)は宿老・大江広元の兄で公家出身の御家人で将軍・源頼朝の次女三幡の乳母夫。
宿老・中原親能は三浦大介義明の嫡男で源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。
宿老・三浦義澄は源義朝の落胤ともいわれ、将軍・源頼朝の挙兵に参陣重陽され後に頼朝の異母弟宿老・阿野全成を討った(阿野全成の誅殺)
宿老・和田義盛・侍所別当で三浦大介義明の孫。和田合戦で滅亡。宿老・比企能員(ひきよしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子、源頼家の乳母夫。比企の乱で滅亡。
宿老・安達盛長は源頼朝の乳母・比企尼の娘婿で伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝を援助した武将。
宿老・足立遠元は宿老・安達盛長の甥にあたるも足立氏の祖。
宿老・梶原景時は石橋山の戦いで平家方にありながら源頼朝を助けた。源頼家の乳母夫で失脚後に梶原景時の変を起こし討死する。
宿老・政所執事・二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は宿老・大江広元、宿老・三善康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚で政所執事を務めた公家。
以上十三人の合議制は、1199年(建久10年)の年末には宿老・梶原景時が失脚、翌年には宿老・三浦義澄と宿老・安達盛長が死去したことで解体され、いよいよ北条執権家が得宗家として実権を握った。
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by mmcjiyodan
| 2020-11-14 13:15
明治維新によみがえる南朝・後醍醐天皇の系図、仕掛けたのは、吉田松蔭門下生と尊王派の公家達・・・・その噂は本物か?。北斗妙見信仰に端を発する大内家から毛利・長州藩まで、脈々と守護し続けた皇統の隠し玉、それは歴史の綾だったのか、それとも必然性だったのか。
「七卿落ち」(八月十八日の政変)で 七卿は逃れた長州の地で、松陰派にある人物と引き合わされている。
和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。
会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。
都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。
これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。
この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。
「維新の十傑」に数えられる人物は、公家の岩倉具視、長州藩は大村益次郎・木戸孝允(桂小五郎)・前原一誠・広沢真臣の四名、薩摩藩は西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。
維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。
十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文や山県有朋、井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達である。
その歴史的事実に「隠された明治維新」にまつわる噂の謎のミステリーが存在する。
詳しくは関連記事【異聞・隠された明治維新】に飛ぶ。
詳しくは関連記事【幕末~明治維新・人名と事変リスト】に飛ぶ。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。
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by mmcjiyodan
| 2020-11-13 12:47
周知のごとく「日本の皇統は凡そ三千年間の長期に渡る歴史を持っている」と言われている。
本来、日本の国の歴史と皇統は切っても切れない「日本人の精神的象徴」となつている歴史的実事が存在し天皇は民衆の尊敬を集めている。
日本人の成り立ちを考えるなら、「日本人の祖先は何処から来たのか?」と言う事の始まりから考える必要があるのに、「天孫降(光)臨伝説」と言う歴史的な捏造(ねつぞう)が、歴史学のまやかしになっている。
ヨーロッパや中国の皇帝は武力を持っ実力者の「取って代わろう」と言う野望に地位を奪われてきた。
ヨーロッパや中国と違い日本の皇統が永く続いた訳は時の実力者(領主)が民をひれ伏され納得させる「統治に裏つけ保障と証明」が必要だったからである。
日本列島に於いて、古来から統治に際する領主の地位の裏つけ保障と証明は天皇から授けられる形で存在していた。
だからこそ、どんな有力者が他から現れても連綿と天皇家(皇室)の存在が実力者(領主)の追認機関として成立していた。
日本人の永年培われた皇統を敬(うやま)う感性は脈々と続けられて来た。
しかしその天皇家(皇室)の保障と証明の裏つけは、古事記・日本書紀に関わる三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)と言う証明物の所持を以て納得させると言う手段しか無かった。
誤解されては困るが、例え出発点が天孫降臨伝説や天皇制の根拠が歴史的な捏造(ねつぞう)であっても、二千年以上の歴史が在る天皇制の現在や各神社それぞれの歴史は、長期に渡り現存するのだからその現在を筆者が否定する訳では無い。
この日本人の心のルールに唯一反逆を試みたのが戦国時代を代表する最も有名な武将の一人・織田信長だった。
詳しくは【【織田信長の「大虚(おおうつ)け」を解説する】】に飛ぶ。
詳しくは【【「本能寺の変」の謎・光秀の本能寺】】に飛ぶ。
【第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan
| 2020-11-04 12:23