源義経は五年後に鞍馬山を降り、監視の目を逃れて京を脱出、東北の大豪族・奥州藤原氏の頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら)を頼る。
義経十六歳の時であった。
ちょうど平安末期のこの頃は、平清盛が太政大臣に成って、平氏全盛の時代であるが、奥羽六ヵ国の雄・奥州藤原家は別格で、平氏としても影響が及び難かった。
源義経が藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきで、少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れない。
藤原秀衛(ふじわらひでひら)は、東北の大豪族・奥州藤原氏の三代目になる。
奥州藤原氏の初代は清原清衡(きよはらのきよひら)と言い、前九年の役では祖父の清原武則(きよはらのたけのり)が源氏の鎮守府将軍・源頼義(みなもとよりよし)に味方し、後三年の役(清原一族の内紛)で清原清衡(きよはらきよひら)に源氏方の源義家(八幡太郎義家)が付き朝廷内の思惑から源義家(八幡太郎義家)が後三年の役を私闘と裁定された余波で奥州六ヵ国の実質支配が転がり込んで来た。
その後、清原清衡(きよはらのきよひら)は領有した奥州全域の富を背景に、時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして藤原(藤原)姓を名乗る事を許され藤原清衛(ふじわらきよひら)と名乗って東北の大豪族・奥州藤原氏が誕生した。
藤原秀衛(ふじわらのひでひら)はその藤原清衛(ふじわらのきよひら)の孫にあたり、奥州藤原家がもっとも繁栄した時の棟梁だった。
【藤原清衛(ふじわらのきよひら)】に戻る。
関連記事
【奥州・藤原氏の誕生】に飛ぶ。
【奥州藤原家】に飛ぶ。
【奥州平泉・中尊寺】に飛ぶ。
【第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan
| 2008-04-27 21:17
富士川の戦いは、言わば臆病者同士の戦いである。
石橋山の合戦に破れ、房総半島(安房国)に逃れた源頼朝は、安房国で大勢を建て直し、僅か二ヶ月弱で関東武士十万余を味方にして相模国鎌倉に陣を構える。
朝廷を力で抑えていた平家政権にとってはこの源頼朝の所業は反乱である。
これを知った平清盛は、頼朝追討の宣旨を願い出て総大将(追討大将軍)に平維盛(たいらのこれもり)を据え、反乱鎮圧の兵を編成する。
頼朝追討の宣旨を受けた平維盛(たいらのこれもり)率いる数万騎が駿河国へと達すると、頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で甲斐の武田源氏・武田信義、舅の北条時政らが率いる二万騎と合流する。
富士川の戦いで維盛軍と対峙し、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛(これもり)軍を破る。
敗走する平家軍を追撃して殲滅するチャンスだったにも関わらず、臆病者の頼朝は深追いする事無く兵を引いている。
富士川の戦い(ふじがわのたたかい・「浮島ケ原」と呼ばれる湿地帯)とは、平安時代後期の治承四年十月二十日に駿河国(静岡県)富士川で、源頼朝の兵(関東武者)と追討の為に派遣された総大将・平維盛(たいらのこれもり・弱冠二十三歳・平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男)ら平氏方(関西武者)の兵が戦った合戦であり、源平合戦と呼ばれる一連の戦役の一つである。
平維盛(たいらのこれもり)は、源頼朝の挙兵に際し追討大将軍となるが、富士川の戦い(富士沼(浮島原)から飛び立った数千羽の水鳥の羽音)で水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走(ただし、羽音によって源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとしたところ、不意の命令に混乱して壊走したと言う説もある)して散り尻に都へ逃げ帰り、祖父・清盛の怒りを買う。
この平家方頼朝追討軍、永年の都暮らしで「公家化して軟弱に成って居た」と言われて居る。
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by mmcjiyodan
| 2008-04-27 21:14
日本と言う国は、皇統を始めとする血統至上主義の氏族社会が永く続いたので、現代の人々も未だに血統に対しては異常な程「氏族で在りたい病」として反応する。
現代人もそうした心理背景を思考の中に内在しているから希望的に先祖が氏族で在る事を望み、儒教・儒学(朱子学)を基本として採り入れた「武士道精神」などと言う綺麗事に騙され易い。
言って置くが、或る目的の為に武士と言う者が発生したのは平安初期頃の事で、武士道の精神などと言う五パーセントの占有率の職業精神が成立したのは江戸期に入ってからである。
だいたいに於いて、多くの日本人が日本武士の発生ルーツや変遷をも知らないで、「格好が良いから」と「日本を武士道の国」と観念的に括ってしまう。
「武士道を格好が良い」と想っている方と「戦艦大和が格好が良い」と想っている方が共通しているのは、表面的な格好良さだけを見ている事である。
武士道精神には建前の格好良さとは違う本音が存在し、戦艦大和にはその見かけの美しさにはそぐわない哀しい歴史が存在し、「戦艦大和症候群」なる言葉まで残った。
それに「武士道精神」などと言う綺麗事は、大衆受けを狙った執筆や似非政治家などの利用しに掛かる者はともかく「格好が良い」などと本気で想っている者は、単純稚拙なお人好しである。
何故なら、武士道精神礼賛の裏返しは、ジュピター・コンプレックス(被支配の願望)であり、精神心理的には余り格好が良いものではない。
勿論、右脳域の感性に於いて「武士道の精神」は理解できない訳では無い。
基本が精神論であるから、個々に信じて生活態度の指標にする事まで否定はしない。
だが、左脳域の理性に於いては、武士道精神は凡(おおよ)そ現実的ではない幻想の世界である。
武士道が成立したきっかけは、安土桃山期の事である。
甲斐源氏・武田信玄と戦った「三方ヶ原合戦」に破れた徳川家康は、命からがら逃げ帰り、切羽詰まった家康は、心理の裏を書き、浜松引馬城の城門を開け放ち、明々と篝火を焚かせた。
本音の所は、城門を閉じてしまえば、逃げ込んで来る後続の味方の兵を収容出来なく成ってしまうからだが、武田方ではこの所作を「何か計略があっての事」と疑いを持つ。
敗戦に追われて逃げ込みながら城門を閉めないとは、余りに常識外だったからである。
武田信玄は、深読みで警戒し、ついに城門を開け放った浜松引馬城を攻めなかったのである。
この徳川家康、良く言えば慎重、悪く言えば臆病な性格で、勇猛な武門の将とはイメージが少し違う。
だが、勇猛なだけでは天下は取れない事を、源頼朝が証明している。
幾ら勇敢でも、死んでしまえば勝利には成らない。
「臆病」と言われるほど慎重に事を運ぶ者が、決着は遅くても勝利に結び付く事が多いのである。
関が原の戦いでもそうだったが、戦いの勝利と共に、その前後の対処が彼の天下を握る過程を有利にして居る。
その臆病な家康が城門を開けて居たのには、彼の運命をも決定つける「彼の性格があった」のである。
ここで家康の心情であるが、浜松引馬城に逃げ帰るまでに、身を捨てて自分を守った部下達を、見捨てられなかったのだ。
それ故、戦場から落ちてくる部下を、ギリギリまで救おうとして城門を開け続け、結果その事が自分を救う事になったのである。
当然ながら、家康の家臣思いの心情は戦場(いくさば)において掟破りであるが、家臣に「信頼するに足りる棟梁」と通じる。
戦国期に在ってこそ、互いの信頼がいかに大切なのかを、この一事に教えられる。
この経験は、家康生涯の宝となり、後の盟友を信じる生き方と時々の決断の糧として、大いに生かされ、盟友に導かれて、天下取りに進んで行く事になる。
この徳川家康と三河家臣団の結び付きが、後の徳川幕府成立後に武士のあり方の手本となり、江戸期の「べき論」として「武士道の精神(さむらい魂)」が、成立する。
つまり「武士道の精神」は、僅(わず)か江戸期の約二百五十年間に、それも国民の十パーセント(三パーセント前後)にも満たない武士と言う名の「奉職役人・官僚」身分の者の間だけに在った精神である。
徳川家康と三河家臣団の結び付きは、首領(武家の棟梁)である家康の家臣に対する気配り思い遣りが前提に在っての新しい信頼関係で、徳川幕府成立以前の武士には江戸期における「武士道の精神」などはなく、下克上(げこくじょう)の世界だった。
昔の主従関係には思想的に家族主義が在り、鎌倉期の御家人呼称で判るように棟梁には一家内一族の生活を支える責任の側面が在った。
江戸期の中期頃までは徳川家の直参家臣は御家人で、各大名諸侯の家臣は藩士では無く家中の家来と呼んでいた。
つまり武士道は、一家内一族の生活を支える棟梁側の責任を前提とするもので、その一方が欠けた精神論だけにしてしまったのは明治政府の皆兵政策からである。
それ故、この「武士道の精神」もって「日本人の心」と言い張るのは、いささか格好の付け過ぎであり、この幻想を利用して国民を戦地に送った大戦が、ほんの一世代前に在った事を忘れてはならない。
近頃「日本は武士道の国だ」とやたらに強調する連中が居るが、それは本当だろうか?
我輩の解釈では、武士道の真髄は「自らを律し、時に責任に対して潔(いさぎよ)い事だ」と解釈しているがそれは権力者が下位の者に要求する幻想的な綺麗事であり、つい最近の政治家を含め過去の歴史上で権力者が自ら潔(いさぎよ)かった事など過って全く思い当たらない。
貴方は武士道の国らしく潔(いさぎよ)かった人物を、この二千年を越える歴史の上で何人知っているのか?
詰まり我輩に言わせれば、「武士道とは、権力者に踊らされる事と見つけたり」と言う事である。
上位者が金輪際律しない「武士道の国の綺麗事」を「混乱する現代社会を律しよう」とする試みを声高に言う連中は、格好は良いかも知れないが歴史的現実を無視した理想主義者の建前に終始した「たわ言」である。
幾ら精神論だとしても、この情報化社会に在って高度な教育を受けさせた世代に「日本は神の国だ。」や「日本は武士道の国だ。」と言った所で懐疑的に受け取られるだけである。
「日本は武士道の国」と格好つけても武士(氏族)は、明治維新の時点でも全体の五パーセント足らずだった。
「実(じつ/理性)」の現象で考えたら在り得ない「不思議な現象が起こった」とされる事が「虚(きょ/感性)」の現象で、それらの目的は特定の人物のカリスマ(超人)性を創造する事である。
その「虚(きょ/感性)」の現象が語り継がれると「神話や信仰の世界」なのだが、そう言う意味では、日本人の武士道精神も広い意味で「虚(きょ/感性)の範疇に在る」と言える。
つまり憂うべきは、日本史の一般常識(じょうしき)とされる中に、「虚(きょ/感性)」の歴史が当たり前の様に混在し、入試試験やクイズ番組等で「正解」とされている事である。
本来日本人が世界に誇るべきは、おのれを殺し人を殺める武士道の国なんかではけしてない。
世界に誇るべきは、しなやかだった日本人の「共生主義」の行き方である。
数の上では圧倒的に多い庶民(原ポリネシア系縄文人の子孫)の生活意識が、「本当の日本人の心」と思うのは我輩だけだろうか?
詳しくは【国家の品格・武士道の国・日本のまやかし】に飛ぶ。
関連小論
【日本武士のルーツ】に飛ぶ。
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【武士道の始まりと封建制(ほうけんせい)】に飛ぶ。
【切捨て御免のルーツ】に飛ぶ。
【ジュピター・コンプレックス(被支配の願望)】に飛ぶ。
【修験武術(しゅげんぶじゅつ)】に飛ぶ。
【平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に飛ぶ。
【徳川幕府倒幕の隠れた要因・血統主義の崩壊】に飛ぶ。
【第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan
| 2008-04-27 21:11
元々武士の素養とされる言葉に「武芸百般」がある。
この「武芸百般」の意味に於いて、武芸を武術と同じ意味に取り違えているから、思考に始めから錯誤が生じる。
後の世において、芸を「軟弱なもの」と決め付ける先入観が、この錯誤を作ってしまった。
本来、「武芸」の「芸」はあくまでも「芸」で、およそ武士たる者、歌いの一声、舞の一指し、鼓(つづみ)の一打ちも「たしなむ」のが素養とされていた。
その素養意識が、武士のルーツである垣根の無かった神官・神事に通じる神楽舞から「連綿と続くもの」だからである。
従って教養豊かな武人こそ尊敬され、武人の「芸」は、磨くべきものだった。
諜報活動兼芸能従事者に関わる氏族出自の者は、実は修験道から派生した武術・忍術の技能集団であり、諜報分野においては情報収集、及び広報活動が要求される事から、遊興を通じての情報収集や、民衆に意図的なプロパガンダをする目的手段としての氏族芸能従事者は存在したのだが、詳しくは次巻以降の、物語の中の記述に譲る事にする。
巫女舞や神楽から始まった祈りの儀式も、南北朝時代や室町時代になると、氏族の諜報活動兼芸能従事者の中から、観阿弥・世阿弥親子のように猿楽を猿楽能として大成させる者も出て来る。
彼らは、明らかに氏族の出自だった。
ほかにも、歌舞伎や人形浄瑠璃と言った日本の古典芸能は、こうした氏族の諜報活動兼芸能従事者の下で育まれたのであるが、これを、被差別民衆が「芸能と関わる側面が大きかったから」と言って、「賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)」と言う被差別民衆の間から、「種々の芸能が生まれた」とするのは、明らかに間違いである。
影人として芸能関係を装い、諜報活動をしていた彼らは、「武士道精神」と言う儒教(朱子学)の建前の犠牲になった。
例えて言えば、江戸期の見世物小屋で披露された「軽業師」の技も、元は修験道の術(忍び術)が「基礎に成って居た」と考えられる。
関連記事
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by mmcjiyodan
| 2008-04-27 21:10
明治維新が成功し、「近代日本政府」はやっと成立した。
だが、やがて新しい制度の中で新たな権力が育ち、富が一部に集中し、日本を戦争への道へ進ませ、悲惨な歴史を刻み始めるのに、五十年とは要さなかったのである。
「財閥と軍部の台頭」が、それである。
つまり、近~現代に於ける政治・経済の構造は、「四~五十年」で、疲労してしまうのだ。
先の大戦に至る、日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、満州国建国、など近隣国を巻き込む「不幸な歴史」も、その背景には「日本国内の不況」と言う事情があった。
千九百三十六年(昭和十一年)、民間人を含む皇道派青年将校のリーダー達十七名とその指揮下にある兵約千五百名に拠る「昭和維新・尊皇討奸」を目指す二・二六事件が勃発する。
この動乱も、不況の中、青年将校が立ち上がった改革クーデターである。
維新の制度改革によって、初めて氏族ではない将校が誕生するに至り、見捨てられた農村部の苦境が、実感として判る様になったからである。
その背景には、財閥と軍の結び付きによる「富の集中」があり、彼らの心情は、察する所、余りある。
一部の金持ちと、多くの貧乏人と言う構図が出来上がっていた。
その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、かえって軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが、「武力解決が主流」になってしまった。
当時、農村部の小作農家の娘達の多くは、都会の娼婦館に身売りして行かざるを得ない程、経済的に追い詰められていた。
「野麦峠」などの作品で知られる劣悪な労働条件下の奉公も、農家に米の収穫以外、現金収入を得る手段が無かったからである。
その環境下で凶作に合うと、農村部はひとたまりも無い。
そこで、軍閥と財閥が狙ったのが満州であり、中国である。
つまり、次の四、五十年の原資を、闇雲(やみくも)に「外地に求めた」のだ。
そして、その無理は通らなかった。
豊臣秀吉政権の無謀な外地獲得行為の教訓は忘れられていた。
長期的に見ると、富が一部に集中するやり方は資金の回転を鈍らせ、内需は慢性不況に陥る事になる。
一番単純な話し、痩せた土地からは思うような収穫は得られない。
国民を富ませなければ国税は得られない。
一部を富ませるやり方は、やがてその一部に国の方向まで握られ、彼らの利益のみに国家の方針が進む事になる。
経済運営とは、一歩間違うと国の進むべき方向を狂わしたり、国を滅したりする魔物なのだ。
つまり、国民を豊かにする事こそ、国家の暴走を止める唯一の手段である。
戦前は財閥、軍閥と言う新たな貴族(氏族)が跋扈(ばっこ)していた。
敗戦でご破算になって六十年、「格差があって何が悪い。」と言う政府が氏族の発想で、また新しい資産家貴族を生み出しつつある。
米国は低賃金労働力を移民に頼ったが、現政府は非正規雇用制度を推し進め国民に低賃金労働力を求め、財政建て直しを図っている。
これは、時代に逆行する政策である。
一度廻り始めた歯車は、行き着く所まで行かないと止まらない。
日清・日露の戦いも、支那事変も、その後の世界大戦も、財閥と軍閥の圧力の成せるものである。
当初批判的だった昭和天皇陛下も、東條英機氏も、廻り始めた歯車を止める事は出来なかった。
見える世界に、実は見えない世界が潜んでいる。
それを、額面通りに見える世界で判断する所に、「安易さ」は生まれる。
見える世界で判断する青臭さは、それこそ日本人が「信じたがる物語」で、その先の事は、結果が出てからでないと考えない。
現在の日本は、国民の厳しい監視の下にあるべきである。
「富国強兵」の名の下に、財閥を育てた過去の日本がどう言う結果になったのかは、誰でも知っている。
結局の所、益々財閥に都合の良い政治が行なわれて軍事国家色が強くなり、破滅の道を選ぶ結果になった。
それが敗戦でご破算に成り、戦後の中小企業に活力があった時代は、日本経済全体が活況だった。
それを稚拙な金融政策で見捨てて来た。
多くの人々の受け皿(働き口)は中小零細企業で、採用の選別を前提とする大企業ではない。
国際競争力の確保は、地に足の付いた長期的な国力の維持発展の為にも、底辺の中小零細企業の重点育成を強化する道があったはずで、それなら未来の若者に等しくチャンスと夢の場所を与えられたはずである。
実は、「美味しいから」と、翌年の「種」まで食べ尽くしてしまったような形振り構わないやり方が、この五年間の金融機関優遇、大企業優遇の金融政策だった。
残念ながら、団塊世代の築きあげた中小零細の事業基盤は、金融機関と大企業に食い尽くされ、今更取り返しが付かないまま老後を迎え、国家の負担世代に成りつつある。
定年の世代になって「再チャレンジ」と言われても、金融環境を含め、強大化しつつある資本に対抗する術は無い。
極端な事をすれば必ず咎めは出るもので、中小零細企業が生きていれば、団塊世代や若者達の受け皿(働き口)は残っていて、まだまだ国家の負担世代には成らない現役が多数居た筈である。
従って、教育問題を教育方針だけに分けてあれこれ言うのは筋違いである。
頑張れば中小零細企業の親方や社長に成れた時代の若者と比べ、チャンスと夢の場を失い、長い事経営に苦しむ親達を見せられて、教育方針を是正しただけで、未来が見えない若者が「まっとうに育つ」などと言うのは、政権政党のいい加減な誤魔化しである。
現代の日本は、政財界が一致して、「国際競争力」の名の下に新たな「階級社会」を形成しつつある。
明らかに、戦前の「地主と小作の立場」そして「軍と財閥の富の独占」が、形を変えてよみがえりつつあり、恐ろしい事に、この階級社会は教育機会(教育費用)の点で固定化を招き、挽回の可能性を難しくしそうである。
つまり国民は、政府に「ひた隠し」にされながら、国際競争力の名の下に新たな「階級社会に誘導されよう」としているのである。
「馬鹿げている」と否定できれば良いのだが、庶民が甘く見ていると、一部の者に富が集中する二千年前の氏姓制度に、形を変えて昔帰りしそうである。
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