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本能寺の変(ほんのうじのへん)

本能寺は、天下布武(てんかふぶ)を目指した一代の英雄、織田信長の最後の地と言われている。

実は、「本能寺の変」当時の本能寺の所在地は、現在の本能寺の位置とは違っている。

都の中央を内裏まで貫く朱雀大路から東へ七本目の油小路が、最南端の九条大路から皇宮御所の内裏(だいり)に向かって十八本目の高辻小路と十九本目の五条坊門小路との間の交わる場所が、当時の本能寺の所在地だった。


千五百八十二年(天正十年)六月の始め、明智光秀は一万三千騎の軍勢を率いて丹波亀山城を出立する。

一万三千騎の大軍は、三草(みくさ)越え街道を粛々(しゅくしゅく)と進んでいた。

奇妙な事に、この時畿内には光秀軍以外に、これと言う大軍勢は居なかった。

粛々(しゅくしゅく)と進む軍勢のざわめき、荷駄の音、時折聞こえる軍馬の嘶き、初夏の草息切れの中、明智勢一万三千騎の向かうは西方、中国地方の大々名、毛利家攻めの羽柴秀吉加勢・・・・の筈だった。

夕刻、その軍勢が突如行き先を変えた。

光秀が、東に向きを変え、老の山(おいのやま)から山崎より摂津の地を経て、京の都に着いた時は、既に明け方近くであった。

都はまだ覚めやらず、静まり返っていた。

ふと天空を見上げると、そこには変わらぬ月があった。

光成は馬上で、思わず白みかけた月に向かって手を合わせた。

都の家並みが影を帯びて静かに佇(たたず)んでいる。

都は、信長の築いた四方攻めの結界の中で、静かに眠って居たのである。

桂川を渡った時点では、まだ藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智光春(秀満)など家中の主だった者数名が老の山峠で打ち明けられて、密かに承知しているだけだった。


織田信長は本能寺に居た。

夜明けを待つ静寂に包まれた本能寺は、石垣土塁を持ち堀一重に囲まれた小城郭の様な寺である。

その本能寺の造作が、今は何もかも黒々と静まり返っている。

先程人払いをして、一人で庭にいた。

夏虫の声が聞こえる。

野望は漸く、信長は手が届く所にあった。

苦しい時、信長は月を見上げる。

月は僅かばかりに闇を遠ざけ、密かに安堵が訪れる。

孤高の信長には、他人には見せられない孤独がある。

「此処まで、我ながらよう来たものだ。」

立ちはだかっていた壁は、ことごとく打ち壊して、近隣に遮(さえぎ)るものは無くなっている。

「阿修羅と成りても、やらねばならぬ。」

信長には大願が目前に見えていた。

博多の豪商・島井宗室や女達を交えた茶会の後、先ほどまで森欄丸を相手に酒(ささ)をたしなみ、珍しく酔って眠気を催していた信長は、「ふぅ」と一息付いて庭から寝所に戻った。

床に入った後の事は、記憶にない。

確かに都は深い眠りに着いていた。

しかし、その静寂が突然破れ、古都の一角が震えた。

歴史が大きく動く瞬間だった。

夜が白み始めた早朝、法華宗本能寺は、一万三千の大軍に囲まれていた。

本能寺に居たのは森欄丸(もりらんまる)ら、「僅か小姓近習衆二百数十名に過ぎなかった」と言われ、大軍に囲まれては、寺の堀など一溜まりも無い。

欄丸(らんまる)が目にした寄せ手の軍勢の、そこかしこに翻(ひるがえ)っている旗印は「桔梗紋」である。

水色桔梗紋は、紛(まぎ)れもなく惟任日向(これとうひゅが/明智光秀)の軍勢だった。

織田信長の結界と光秀明智】に戻る。

「本能寺の変」には謎が多く、朝廷公家豊臣秀吉徳川家康その他多くの黒幕説がある。

大結界については、【本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。】を御一読下さい。

「本能寺の変」の謎については、小説・「光秀の本能寺(逆賊謀反は光秀に非ず、信長なり)」をお読み下さい。

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恐れ入りますが、「本能寺の変」の詳細につきましては本編第三巻をお読みください。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:42  

北条時政(ほうじょうときまさ)

北条時政(ほうじょうときまさ)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

頼朝の妻北条正子の父北条時政は、紛れ無き桓武(かんむ)平氏の血筋である。

桓武天皇から五代後の平直方(たいらのなおかた)が祖(基)である。

平直方は伊勢平氏・平貞盛平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)の乱の鎮圧に失敗、役を解かれて伊豆の国(いずのくに)に在住する。

父は平時方(たいらのときかた)と言った。

平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。

北条家は平家の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても、当時権勢を誇っていた平清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければ、たいした出世は望めない。

時方は伊豆の国(いずのくに)・北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。

その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。

平安末期、都から遠く離れた北条家に思いも拠らぬ転機が訪れる。

源氏の棟梁・源頼朝が伊豆の国(いずのくに)に流されて来て、その見張り役を平清盛に任せられたのである。

頼朝に目を着けたのが北条時政の娘・正子だった。


北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)の命運を変えたのは娘・北条政子(ほうじょうまさこ)のわがままからだった。

桓武平氏・伊豆の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)が大番役(京警護職)で京へ上っていた間に娘の政子が伊豆の国へ流配されて来た源氏の頭領・源頼朝(みなもと の よりとも)と恋仲になる。

治承四年(1180年)6月29日に公家・桓武平氏高棟流・平時忠(たいら の ときただ)が伊豆の知行国主に任官する。

知行国主・平時忠(たいら の ときただ)が兼隆(かねたか)の目代任命(律令制下の地方官の代官)するを機に北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)は娘・北条政子(ほうじょうまさこ)を兼隆に嫁がせようと画策する。

知行国主・平時忠(たいら の ときただ)が兼隆(かねたか)の目代任命(律令制下の地方官の代官)するを機に北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)は娘・北条政子(ほうじょうまさこ)を兼隆に嫁がせようと画策する。

帰国の道中に兼隆との縁談を進めていた時政(ときまさ)は平家の怒りを恐れ、娘・政子を兼隆のもとへ送ろうとするが、勝気な政子(まさこ)は逃げ出して頼朝のもとへ行ってしまう。

この娘・北条正子の大胆な行動が、鎌倉幕府執権・北条得宗家の成立に結び着くのである。

時政(ときまさ)は止むを得ず頼朝(よりとも)とのの縁を認め頼朝(よりとも)の義父となる。

この縁が、時政(ときまさ)と北条家一党の出世のきっかけとなる。

婿・頼朝(よりとも)は以仁王(もちひとおう)の令旨を受け挙兵に呼応する。

娘の正子に引きずられるように源頼朝の旗揚げに与力した時政は、甲斐源氏・武田信義(たけだのぶよし/源信義)を味方に付ける説得に成功するなど成果を挙げる。

時政は、将軍・頼朝の義父として鎌倉幕府成立後に最有力の御家人となり、時政は七ヵ国の地頭を一度に務める惣追捕使(そうついほし)に補されるが、ちなみにこの職責は、奥州藤原家の最盛時をしのぐ規模の権限である。

しかし時政は是を長く勤めず自から鎌倉幕府中央に戻り、政権中枢の政務を担当するように成る。

その後二代将軍・源頼家(みなもとよりいえ)とその子・一幡(いちまん)を殺害、頼家・次男・公暁(くぎょう)をそそのかして三代・源実朝(みなもとさねとも)を殺害させて頼朝源氏の血を根絶やしにして北条執権家を確立した。

頼朝の死後執権と成った時政は、幾多の権力闘争をしかけて有力御家人を排除するに成功する。

しかし晩年は平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に就けようとして娘・正子と嫡男・北条義時の反撃に合い失脚する。

平賀朝雅(ひらがともまさ)と北条時政の失脚】を参照
北条得宗家】を参照

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:41  

本多忠勝(ほんだただかつ)

本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族である。

この本多氏は、あくまでも自称・通説の類であるが藤原氏北家・兼通流の二条家綱の孫と自称する右馬允秀豊が豊後国の本多郷を領した事からその時に本多氏と称し、その後裔がやがて三河国に移住したとされている。

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)本能寺の変が起きた時、徳川家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。

忠勝は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。

しかし徳川政権が確立するに従い、理由は定かでは無いが古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。

唯一考えられる理由が、我輩の推論通りに松平竹千代双子説であれば、本多家が家康から疎んじられる説明が着く。

この本多家、その後転封を繰り返して姫路藩などを経由し、本多家は三河岡崎藩五万石に落ち着いたが、幕閣の要職には恵まれなかった。

【松平竹千代双子説】についてはこの物語の第三巻の核心部分の一つですので【第三巻】をお読み下さい。


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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:30  

祭り(祀り)

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。

本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。

現在の社会合意では、誓約(うけい)の性交など理解出来ないとんでもない事である。

しかし時代背景を考えれば、部族混血に拠る「部族間の争いに対する平和の獲得」の神事は必然とも言え、当然考えられる知恵である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

神社の祭典は、時代の変遷に伴って現在のように大人しいものに成ったが、当初はエロチックなものだった。

そもそも日本列島の神・事代主(ことしろぬし)は、田の神(稲作神)である。

元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

日本の祭りのルーツは、「妙見祭」の北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、田の神(稲作神)・事代主(ことしろぬし)から始まった陰陽修験の影響を受けているから大抵は「乱交祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事だった。

そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。

そうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。

陰陽修験が、民衆を宗教的にリードした事は間違いがない。

勿論、初期の現実的な現象として武術を修めた「影の官憲」である修験道士を、村の恭順を示す為に歓待する村も多かった。

当然の事ながら、酒食に加え村娘を差し出してお相手に宛がうのは、当時の感覚では至極当り前だった。

そこを怠ると、無秩序に村娘に手を付けられる恐れがあるから、村側に最低限の選択権を確保するには、それも止む負えない処置だった。

或いはこの大神(狼)様相手の事を、「お祭り」と呼んだのかも知れない。

「祭り事」は統治の意味でもあり、「お祭りをする」は性交の隠語でもある。

祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らわぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、この辺りの民心を慮(おもんばか)ると、氏上(氏神/鎮守神)の祭りに事寄せ、神の前の暗闇で乱交を行なうそれ事態が、ある意味「民の氏族への反抗心が為せる事」と言う読み方も伺えるのである。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、異部族を混血化して単一民族に仕立てる事であり、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:27  

政(マツリゴト・祭事)

氏族が神の名を持って土地を治め、国を治めた証拠は、言葉として永く残っていた。

統治の基本は「恐れ(恐怖)」と「敬(うやま)い=(尊敬)」なのだが、恐れだけでは「窮鼠猫を咬む(困ればねずみも猫に反撃する)」事もあるから、統治者は敬(うやま)われなければならない。

そこで手っ取り早く統治者の権威の裏付けに利用されるのが信仰で、統治者が神に成ってしまえばそれ以上の「敬(うやま)い=(尊敬)」は無いのである。

「恐れ入りタテマツル。」

この意味を、貴方は考えた事が有るだろうか?

昔、と言ってもつい百五十年ほど前には「治める事(治政を施す事)」を、「政(マツリゴト)」と言ったが、この意味は言うまでも無く「祭事(マツリゴト)」である。

つまり、神の名を持って治政を施す事が「政(マツリゴト・祭事)」である。

そして、氏上(氏神)と言う名の治政を施す者は、神として「タテマツラレル(立て祭られる)」のである。


日本列島に渡り来た渡来部族の長は大和政権の認定を受け「氏」を名乗り支配者身分であることを世間で明確にした。

渡来部族の長は占領地の統治の根拠を説得する為に神を名乗り絶対権力を握り根拠にした。

この段取りで渡来部族の長は絶対権力を握り神の住まいを設置し被支配者に「氏神様」と呼ばした。

「氏神様」の神事の中に政(マツリゴト・祭事 政治)=誓約(うけい)性事があり、神前性交の常識習慣が残った。

所が、その氏上(氏神)の治政を「潔しとはしない部族や勢力」が、必ず存在した。

「敬(うやま)い」、たて祀(奉/祭)らせる事で不服をかわすのだが、中には祀(祭)らわぬ者も居る。
言わば「反政府勢力」である。

そこで、統治する者を「タテマツラヌ(立て祭らぬ)」者達である「反政府勢力」の事を、「マツラワヌ(祭らわぬ)者達」と、呼ぶ事になる。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

そして政(祭り)には誓約(うけい)の意味合いがあり、その精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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