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渋沢栄一(しぶさわえいいち)


明治時代の日本を代表する実業家と評価される渋沢栄一は、江戸時代末期天保11年(1840年)2月13日に武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に農民(名主身分)父・渋沢市郎右衛門元助(1810年 - 1871年)、母・エイの長男として生まれた。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。
栄一の幼名は栄二郎でのちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。

家業の環境で原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。

豪農・名主身分に生まれた栄二郎は五歳の頃より父から読書を授けられ、七歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や「日本外史」を学ぶ。

剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。十九歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改める。

剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。

京都に出るが八月十八日の政変(文久3年(1863年))直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになった。

仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。

主君の一橋慶喜が将軍となったこと(慶応2年(1866年)12月5日-慶応3年(1867年)12月9日)に伴って渋沢栄一は幕臣となった。

慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航・パリ万博とヨーロッパ各国訪問を経験する。

渋沢栄一は徳川昭武の随員として渡欧を機会にパリに留学する。

渋沢栄一はフランス滞在中に、幕府方御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役の幕府要職に転じている。

帰国後は、大政奉還が為され静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受。

明治二年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立するも明治政府の大隈重信に説得され、十月には大蔵省に入省する。

大蔵官僚としては民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。。

1873年5月7日、大蔵大輔井上馨と大蔵省三等出仕渋沢で財政改革意見を建議し、建議書が『日新真事誌』などに掲載され、論議を生んだ。

井上馨と渋沢は予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年5月7日、大蔵大輔井上馨と大蔵省三等出仕渋沢で財政改革意見を建議し、建議書が『日新真事誌』などに掲載され、論議を生んだ。明治六年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。

渋沢は第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、田園都市(現・東急)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

1909年6月6日、渋沢栄一は七十歳に達し、財界引退を表明し、第一銀行・東京貯蓄銀行をのぞく61の会社役員を辞任する。

財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれた。

これは死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。

生前商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。

昭和六年(1931年)渋沢栄一は九十二歳で死去する。

時代背景の詳しくは【第五巻】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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# by mmcjiyodan | 2020-11-02 15:07  

少子化問題と出産適齢期


この日本史検索で時代ごとの性風俗をエロチックなエピソードとして取り上げると、現代の倫理観に照らして声高に否定する感性が生まれる良識的な御仁(ごじん)も居(お)られるが、その時代ごとに性風俗を形成された歴史的事実は認めなければ成らない。

時代ごとに社会常識が変遷するのは、歴史が証明している。

現代では不妊治療技術が解決の一旦を担っているが、この技術が無い時代で「止む負えない手段」として庶民の知恵として、問題解決の方便として、「神からの授かりもの」と暗黙の了解を得ていたのが「祭りの夜の子種」の存在である。

この「夜祭りの風習」は、生物化学的に問題を解消する狙いが在る。

小さい村社会の群れには「無秩序な夜這い風習」で血の重複が在り劣勢遺伝子が蓄積する可能性が高く成る。

結果劣勢子孫が多数誕生して村落の繁栄力を失う危機に見舞われる。

その為群れ外部からの遺伝子を群れに取り入れる事は生物化学的に良い結果を見込める。

歴史が現代化するとともに「女性の結婚の適齢期」という社会合意時期が遅れて、現代社会では三十歳頃の「ソロソロ結婚しようか」となるが、江戸時代だったら「十五歳から十八歳が結婚の適齢期」で三十路(みそじ)は大年増(おおどしま)で結婚には敬遠される年齢である。

つまり人類文明は必ずしも自然の摂理とは関係ない社会的合意を形成する。

古い歌詞に在るように「十五で姉いや~あ嫁に行き~。」が一般的な社会常識だった。

人間の生理学的には極自然に「出産に適しているのは母体が十五歳から十八歳」の時であるから現代の晩婚化は少子化問題とリンクしている。

自然に{肉体的には出産適齢期}で現代文明社会では{子育て大難時代}にしてしまいそれを塗布密閉する為に{淫行条例}と不自然な現実を創造してしまった。

従って子を為すのに母体の適齢期は「十五歳から十八歳」が正しいのにそれを言えば現在の社会合意に反して「不都合な事実」で世間から袋叩きに合う

つまり時代ごとに社会常識が変遷し、その時点での判断基準に照らして厳密に歴史評価を判断為さなければ成らない。

倫理的にも、時代ごとに社会常識が変遷すると言えば・・・「人間は働かなくては成らない」し{人間は殺しては成らない」そして「人間は盗んでは成らない」。

しかし時代に依っては、統治者の都合により「戦働き(いくさばたらき)で人殺し」が評価され国盗り物語が盗みを合法化して来た歴史が現実に存在する。


詳しくは【暗闇祭り(くらやみまつり)の歴史認識】を参照下さい。

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第一巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2020-11-01 17:56  

日本語漢字に音読み訓読みが在る訳

日本語に、中国語・韓国語に無い「音読み訓読み」が在る。


大陸や朝鮮半島からの文明を携えて渡来部族が散発的に日本列島に渡来して来て弥生人を構成して行く。

弥生人の渡来が散発的であったことも幸いして、. 先住縄文人と大陸から渡来した長江文明を持った弥生人が争うことなく誓約手段により共存して行った。

やがて弥生人の渡来部族の集合体で大和政権が成立する。

大和政権の統治の正統性を国民二認めさせる為に様々な伝説を捏造して流布する活動を国家単位で実施する。

海を渡り日本列島に渡り住んだ渡来部族政権・大和朝廷(やまとちょうてい) の統治政策として現住部族・蝦夷族(エミシ族)の統治政策として考案したのが二重発音をする日本語用法陰陽寮にコントロールされた修験者だった。


これは日本人なら当然知っておかねばならない

中国語(中文/ツンウェン)で「タゥ」と発音する「桃」は日本語では「トウ」と発音し、明らかに元が中国語(中文)に起因しているが、もう一つの「モモ」と読むのはどこから来たのだろうか?

音読みとは、もともと中国語としての漢字の発音に基づく読み方である。

一方、訓読みは、その漢字の持つ意味を蝦夷(えみし)族/縄文人(先住民族)の言語に当て嵌め翻訳機能を持たしたところから生まれた読み方である。

人は、存在する現実には中々疑問を抱かない。

それは「存在するものだから当たり前」と思い込み、当然の存在と認識するからそれ以上深くは考えない。

しかしながら貴方が使っている日本語、結構面白い経緯が在って成立しているので、その事を御紹介する。

予(あらかじ)め断って置くが、これはあくまでも「日本語のルーツ」つまり「原型」の話しであり、その「原型」に渡来流入する人種の様々な言語が加わりまたは外されて今日の日本語に到っている。


筆者は、漢字(中華大陸文字)の日本読みに、同じ漢字圏の大陸(中国)や半島(韓国・北朝鮮)の国には無い「音読み訓読み」が有る事に着目した。

「音読み訓読み」が有る事は、他国から「日本語は難しい」と言われる要因の一つに成っているものだが、本来言葉は正確に確実に意志を通じさせたい為のものだから、それを何故複雑にして難しくしてしまったのだろうか?

それには、今から記述する合理的な理由が存在したのである。


日本語のルーツについては、アルタイ起源説 、高句麗語同系説 、朝鮮語同系説、オーストロネシア(ミクロネシア)語起源説(混合語起源説) 、クレオールタミル語説などが「これまでに唱えられた主要な説」とされる。

アルタイ起源説於いてアルタイ語とは蒙古語・満州語・朝鮮語・トルコ語などが属する言語である。

各説を主張する学者の間で色々と論議が盛んだが、どれも多少は正解であり、そんな不確かなものを単純にどこか一つに軍配を上げようとするのは間違いである。

つまり日本列島には、多種多様の渡来人に拠り多くの原語が流入した事実から、その内の一種を取り上げてその原語が「日本語のルーツである」と主張するのは余りにも強引な論法である。

実はそれらの原語は、日本語成立にとっては素材に過ぎない。

であるなら、その流入した多くの原語が整理を見た時が、「日本語のルーツとして成立した」としなければ成らないのである。

まぁ、唱えられた主要な説を川に例えると源流の小さな川達(支流)であり、それらが日本列島で合流して本流(日本語のルーツ)と成ったものである。

つまり、支流が合流して本流と成った時点、縄文期から弥生期へ移行する言語的過程で起こり得た事が、まさに「日本語のルーツ」ではないだろうか?

勿論、縄文人(蝦夷族)には原語は在っても文字はなかった。

そしてその後、半島や大陸から日本列島に渡来して来た人々が、縄文人(蝦夷族)と共生して弥生人となった時にも、まだ意志を伝える原語だけで文字はなかった。

その後、半島や大陸から新たな文明を携えて部族単位で征服に遣って来た部族が、弥生原語の意味と漢字の意味を突き合わせて自動翻訳化する音訓二重発音の読み方を編み出した。


日本史に登場する「大和言葉(やまとことば)」と言う表記には、正直少々疑問が在る。

実はこの「大和言葉(やまとことば)」の表記には、蝦夷(エミシ)族の存在を抹殺する意図が在るからだ。

原在、「日本の最も古い言葉」と伝えられる「大和言葉(やまとことば)」が残る主な地域は、日本列島の両端(りょうはし)に当たる青森県と沖縄県と言われている。

つまり「大和言葉(やまとことば)」とは、そのルーツが「蝦夷(えみし)言葉に在る」と充分に推測できるのである。

にも拘(かかわ)らず、渡来部族が先住民族(蝦夷/エミシ)の地を乗っ取った歴史を「大和言葉(やまとことば)」の名称で隠蔽(いんぺい)してしまったのだ。


詳しくは【日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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第一巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2019-11-05 12:07  

和邇氏(わにうじ)

古代日本に名が残る和邇氏(わにうじ)は、「和邇(わに)」を氏の名とし「和珥(わに)」とも表記し、一説には渡来農耕山岳族、一説には渡来海人族であったという伝えが残っている。

和邇氏(わにうじ)は、初期の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系大部族とされる説と初期の海人族説があり、海人族説が正しければ海人族=海洋民族(隼人族・呉族系)と特定される。

ただしこの和邇氏(わにうじ)、謎ばかり多くて確信を持てる素性表示をできる歴史的な検証は少ない。


出自については二世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶(鉄加工)集団とする職掌説がある。

この日本海側を旧本拠地とする事で、因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説が関わって居そうな推測も伺われる。

和邇氏(わにうじ)は、五世紀から六世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族で、本拠地は大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)だった。

大王(おおきみ/天皇)家と姻戚関係を結び,多くの后妃を出した大和の臣(おみ)姓有力豪族とされる。


記紀神話(古事記・日本書紀)に於いて和邇氏(わにうじ)は、和邇臣(和珥)の始祖は観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の長男の天足彦国押人命となっている。

しかし孝昭天皇には、皇統の根を反(かえ)した説もあり、和邇氏(わにうじ)には日本海側本拠地説があり、和邇氏(わにうじ)と皇統の絡みは説として弱い。

和邇氏(わにうじ)の支氏姓については、柿本人麻呂を輩出した柿本氏、遣隋使(けんずいし)・小野妹子(おののいもこ)を輩出した小野氏などの他、和仁氏、粟田氏、春日氏、大宅氏などが主な枝氏流として挙げられる。

★名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。


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第一巻・二話】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2018-05-06 01:10  

楠本イネ(くすもといね・オランダおいね)

楠本イネ(くすもといね)は、出島オランダ商館に努めるドイツ人医師・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘で、幕末から明治維新期に活躍した日本の女性医師である。

楠本イネ(くすもといね)は、千八百二十七年(文政十年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(たき)の間に生まれる。

日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。

「楠本(くすもと)」は母の姓で、父・シーボルトの名に失本(しいもと)と漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。

母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産する。


父・シーボルがドイツ人にもかかわらず、出島オランダ商館(長崎)に勤務して居た事から“オランダおいね”の異名で呼ばれた。

イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。

ところが父・シーボルトは千八百二十八年(文政十一年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが二歳の時に国外追放となった。

イネは、シーボルト門下で卯之町の町医者・二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙(いしいそうけん)から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。


千八百五十八年(安政五年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、千八百五十九年(安政六年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。

シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人や娘・イネと交流し、日本研究を続け、千八百六十一年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。


千八百五十九年(安政六年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、千八百六十二年(文久二年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。

後年、京都にて大村益次郎が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。


ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。

宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもといとく)と名を改める。

千八百七十一年(明治四年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業した。

のち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金百円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。

異母弟ハインリヒとその妻・岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。

その後、千八百七十五年(明治八年)に医術開業試験制度が始まるも、女性であったイネには受験資格がなかった為、それと晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。

千八百八十四年(明治十七年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に五十七歳になっていた為合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。


なお、イネは生涯独身だったが、産科の師・石井宗謙(いしいそうけん)との間に儲けた娘・タダが居た。

タダ自身の手記によれば、イネは石井宗謙によって船中で手籠めにされて妊娠した。

その後石井宗謙は、「師匠のシーボルトの娘に手をつけていた」として他のシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。

彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。

後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」と名乗った。

イネ六十二歳の時、娘・高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。

以後、イネは弟ハインリヒの世話となり余生を送った。

千九百三年(明治三十六年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で七十七歳で死去した。

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# by mmcjiyodan | 2018-04-30 17:08