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シ-ボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、ドイツ人の医師である。

ドイツの外交官・ P.シーボルトの長子としてライデンに生をうけた。

シーボルト(Siebold)は、ドイツ系の貴族階級の姓である。

標準ドイツ語ではズィーボルトだが、南部では"s"が濁らないためスィーボルトとなり、日本語の慣用的表記で「シーボルト」となる。

日本で単に「シーボルト」というと、日本と深い関わりのあるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを指すことが多い。


江戸時代後期の千八百二十三年(文政六年) 長崎オランダ商館の医師として来日する。

スィーボルトは、来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを千八百二十七年にもうける。

翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き、伊東玄朴、高野長英(たかのちょうえい)、黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。

千八百二十六年、シーボルトはオランダ商館商館長の江戸参府に随行し、日本に関する研究資料をも集めた。

日本へ来たのは、ドイツ・プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。

帰国に際し,いわゆるシーボルト事件(国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚)を起し処罰され、千八百二十六年(文政十二年) に日本から追放された。


千八百五十八年(安政五年)には日蘭修好通商条約が結ばれ、追放されたシーボルトに対する追放令も解除される。

千八百五十九年(安政六年)シーボルトは、父の再訪日に同伴してオランダ商事会社員として再来日する。

シーボルトは、幕末~明治期の医師・三瀬周三(みせしゅうぞう)らについて日本語を修得し、のち駐日イギリス公使館員 (通訳官) となり、幕府の外交にも参与する。

千八百六十二年(文久二年)、シーボルトは母国に帰国する。

千八百七十年(明治三年) 以後、シーボルトは日本政府の外務省、ローマ、ベルリンの日本公使館に奉職する。

シーボルトは、明治初期から中期にかけて日本の外交交渉に貢献し、千九百十年在職 四十年にあたり勲二等瑞宝章を受けた。

千九百十一年、母国ドイツ・ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して七十歳で死去した。

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# by mmcjiyodan | 2018-04-30 10:56

 

出島オランダ商館(長崎)

千六百三十六年(寛永十三年)、江戸幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力な町人に命じて岬の突端に人工の島を築き、ポルトガル人を収容した。

その島が、長崎の出島である。

その後、江戸幕府の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止されると、一時出島は無人の島となる。

その後の千六百四十一年(寛永十八年)、平戸のオランダ東インド会社・オランダ商館が出島に移転を命じられる。

以来、千八百五十九年(安政六年)にオランダ商館(出島和蘭商館)が廃止されるまでの二百十八年もの間、欧州文化の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした。


千六百四十一年(寛永十八年七月)オランダ商館は長崎移転を命じられ、以前にポルトガル人収容のために築かれた扇形の小島(面積1万 3000m2余)である出島に移る。

千七百九十九年十二月三十一日、世界初の株式会社・オランダ東インド会社は解散、国営化する。

オランダ国営化ののちも、出島オランダ商館はその出先機関として存続して江戸幕府末期の開国までそこにあった。

出島には住宅,倉庫など多くの建物が設けられ、商館長以下数人から十数人のオランダ人が、許可された日本人の使用人を使って生活したが、出入りの制限をはじめ生活上は多くの拘束を受けていた。

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# by mmcjiyodan | 2018-04-30 10:52

 

最上氏(もがみし)と最上義光(もがみよしあき)

最上氏(もがみし)は、清和源氏足利氏の支流であり、三管領の一つ足利流・斯波氏の分家にあたる。

最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。

南北朝時代の延文期(千三百五十六年 - 千三百六十年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、山形城を築城し本拠とする。


出羽国按察使・斯波氏分家は、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称した事を機に所領の最上郡に因んで最上氏を称する事となった。

なお、山形を領した事から、山形氏と表記される事もある。

故に最上氏(もがみし)は、斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれる事がある。

最上氏(もがみし)は、室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、後に出羽国の戦国大名として成長した。


最上氏初代・斯波兼頼以降、古代朝臣(あそん)・大江氏の支流である出羽国最上郡の南朝勢力・寒河江氏(さがえうじ)を、千三百六十八年の漆川の戦いで討伐一掃する。

兼頼は、二代直家・三代満直が最上郡・村山郡各地へ子らを分散配置する事により勢力を伸張するなど、室町時代に最初の最盛期を迎える。

しかし千四百六十九年(長禄四年)、五代義春の、古河公方討伐の御教書が最上氏とともに天童氏にも届けられるなど、分散配置した一族が独立傾向を強めていく。

また、庄内地方を納める大宝寺氏が出羽守を得るなど、中央での斯波氏の勢力低下の影響がこの地方にも見られていた。


千五百四年(永正元年)、最上義定が第九代の家督を継ぐと、後継者争いをする寒河江氏に三度攻め込み、実質的な傘下に置いた。

千五百十二年(永正九年)庄内で大宝寺氏と砂越氏が争うと、勝者の村山地方への進出を警戒し、義定は寒河江まで軍を進めた。

千五百十四年(永正十一年)義定は、侵攻した伊達氏と長谷堂城で戦って敗北し、伊達稙宗の妹を義定が娶(めと)り和睦した。

義定が後継男子を成さないまま死去すると、庶流中野氏から迎えた当時二歳の最上義守を傀儡(かいらい)として、伊達氏の介入を招いた。


戦国時代に入って伊達氏内部に天文の乱が起こると、成人した最上義守は伊達氏から長谷堂城を奪還して独立し、戦国大名の道を歩み始める。

義守の勢力拡張戦略は、千五百六十年(永禄三年)の寒河江氏攻めの失敗で頓挫するが、外交面では嫡男最上義光に将軍・足利義輝の偏諱を賜り拝謁し、また御所号を賜るなど一定の成果をあげる結果を得た。

また義守は、娘の義姫を伊達輝宗へ嫁がせ、義姫は伊達政宗を生んでいる。


最上義光の家督相続の際に父子相克の争い(天正最上の乱)が起こるが、義光が家督相続を果たす。

以後、義光は庶族の天童氏、近隣の白鳥氏・寒河江氏を滅ぼし最上郡および村山郡を平定する。

さらには、千五百八十五年から千五百八十六年(天正十五年から十六年)庄内地方をめぐり大宝寺氏・上杉氏と争い、また大崎氏を攻めた伊達氏を破り壊滅寸前まで追い詰めた。

しかし義光は、同時期十五里ヶ原の戦いで敗れ庄内地方への影響力を失う。

義光は惣無事令違反を訴えたが庄内は上杉氏領となり、この裁定は両家に禍根を残した。


千五百九十年(天正十八年)、義光は覇業を推し進める豊臣秀吉小田原征伐を機に臣従して本領を安堵され、山形城を居城にして二十四万石を領する。

翌千五百九十一年(天正十九年)には、最上家は雄勝郡を獲得した。


その後、最上義光は、娘・駒姫を関白・豊臣秀次の側室にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。

これ以前より義光は徳川家康に接近していたが、さらに豊臣氏と距離を置き徳川氏への傾倒を強めた。


秀吉の死後関ヶ原の戦いが起こると、義光は東軍に組し、西軍の雄である上杉景勝の侵攻を退ける「慶長出羽合戦」を戦う。

さらに翌年、上杉氏の本領から隔絶していた庄内へ攻め込み、上杉勢を駆逐した。

関ヶ原戦後に、最上氏はその恩賞で加増される。

さらに千六百二年(慶長七年)、置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺を佐竹氏との領土交換により雄勝郡・平鹿郡と引き換えて手に入れる。

義光は、計五十七万石(実高は百万石とも称する)を領する大大名になり、最上氏は二度目の最盛期を迎える。


江戸時代に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子・義康の暗殺事件が起こる。

以降も家中の内紛はやまず、千六百二十二年(元和八年)、義光の孫・義俊の代には最上騒動が起こった。

義俊は家中の信望を失っており、最上氏は騒動を理由に幕命により改易される事となった。


この改易、宗家の斯波武衛家が滅亡していたので、斯波氏の流れをくむ最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に一万石の知行を改めて与えられた。

しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったために五千石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、子孫は交代寄合(大名待遇格)格・旗本扱い として存続した。

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# by mmcjiyodan | 2018-03-30 17:54

 

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/追認天皇)

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/第八十五代天皇)は歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の第四皇子で、嫡出の皇子として誕生して生後一か月の十一月二十六日に立太子する。

父の順徳天皇(じゅんとくてんのう)が祖父の後鳥羽上皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)と共に鎌倉幕府執権・北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、千二百二十一年(承久三年)四月二十日日に譲位され四歳で践祚(せんそ/即位宣言)される。

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、即位後わずか七十八日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされずしまいだった。

為に仲恭天皇は、九条廃帝(くじょうはいてい)、承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。

同千二百二十一年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北する。

後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。

同千二百二十一年七月九日に鎌倉幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。

仲恭天皇は幼児で、将軍・九條頼経の従兄弟である事からその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている。

仲恭天皇は、まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、千二百三十四年(天福二年)十七歳にて崩御する。

仲恭天皇は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代天皇=大友皇子)淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「仲恭天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。

鎌倉幕府の成立大略

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第二巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2018-02-28 18:33

 

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)

後鳥羽天皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天皇であり、後に上皇(じょうこう)である。

後鳥羽天皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)は、高倉天皇(たかくらてんのう/第八十代天皇)の第四皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子(七条院)で後白河天皇(ごしらかわてんのう/第七十七代天皇)の孫で、幼帝・安徳天皇(あんとくてんのう/第八十一代天皇)の異母弟に当たる。

後鳥羽天皇は文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。

鎌倉時代の千二百二十一年(承久三年)に、承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時に朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、千二百三十九年(延応元年)に同地で崩御した。


平安末期の千百八十三年(寿永二年)七月二十五日、源頼朝(みなもとよりとも)の従弟(いとこ)・木曾義仲(きそよしなか)の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇(あんとくてんのう)と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。

これに従わなかった後白河法皇(ごしらかわほうおう)と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。

この過程で木曾義仲(きそよしなか)や源頼朝(みなもとよりとも)への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚(しんしゅせんそ)問題」が浮上していた。

同千百八十三年八月に入ると、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。

結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた後白河法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。

後白河法皇は九条兼実(くじょうかねざね)にこの答えをもって勅問した。

九条兼実はこうした決断の下せない後白河法皇の姿勢に不満を示した。

だが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚(しんしゅせんそ)」に賛同し、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると「継体天皇先例説」を主張した。

ただし「日本書紀」には「継体天皇先例説」に合致する記述はなく兼実の誤認と考えられているが、兼実は「日本書紀にはこうしたと記述がある」と勅答している。

千百八十三年八月十日には、法皇が改めて「継体天皇先例」について左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。

そのうちの藤原俊経(ふじわらのとしつね)が出した勘文が「伊呂波字類抄ー乃ー璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なのでー正当な持主の下にー必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。

新帝の候補者として義仲は北陸宮(ほくろくのみや/以仁王(もちひとおう)の第一王子)を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である四歳の尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させる事に決めた。

この即位には、丹後局(たんごのつぼね)の進言があったという。

千百八十三年八月二十日後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚(せんそ)し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。

即位式は、千百八十四年(元暦元年)七月二十八日に、同様に神器のないままに実施された。

安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため、千百八十三年(寿永二年)から平家滅亡の千百八十五年(文治元年)まで、安徳天皇と後鳥羽天皇の在位期間が二年間重複している。


壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収される事はなかった。

千百八十七年(文治三年)九月二十七日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。

以後も、千百九十年(建久元年)一月三日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。

千二百十年(承元四年)の順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の践祚(せんそ)に際して、後鳥羽天皇は既に上皇になっていた。

後鳥羽天皇は、奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなす事とした。

だが後鳥羽天皇は、その二年後の千二百十二年(建暦二年)になって検非違使であった藤原秀能(ふじわらのひでよし)を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。


伝統が重視される宮廷社会に於いて、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種の「コンプレックス」であり続けた。

また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていない事と天皇の不徳が結び付けられる場合があった。

後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服する為に強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。


千百九十二年(建久三年)三月までは、後白河法皇による院政が続いた。

後白河法皇(院)の死後は、関白・九条兼実(くじょうかねざね)が朝廷を指導した。

兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となった。

これは内大臣・土御門通親(つちみかどみちちか/源通親)の策謀によるといわれる。

千百九十六年(建久七年)、通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。

この建久七年の政変には、頼朝の同意があったとも言う。


千百九十八年一月十一日、後白河天皇は土御門天皇に譲位し法皇に成る。

以後、土御門、順徳、仲恭と千二百二十一年(承久三年)まで、後白河は三代二十三年間に亘り上皇として院政を敷く。

後白河は上皇になると、旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であったが、土御門通親をも排し殿上人を整理して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採った。

千百九十九年(正治元年)の頼朝の死後も、後白河法皇は台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。

千二百二年(建仁二年)に九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。

既に後白河法皇・源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。


翌千二百三年(建久三年)の除目は後鳥羽上皇主導で行われたと、藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は「除目偏出自叡慮云々」と「明月記」の建久三年一月十三日条に記している。

また、後鳥羽上皇は公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。

その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」と「明月記」の建暦元年八月六日条に評している。

その後、源千幡が三代将軍になると、後鳥羽上皇が自らが千幡を「実朝」の名乗りを定めたと「猪隈関白記」建仁三年九月七日条に記してある。

実朝を取りこむ事で幕府内部への影響力拡大を図り、幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍」の構想を打ち出してきた。

この事から、朝幕関係は一時安定期を迎えるが、実朝が甥の公暁に暗殺された事でこの関係にも終止符が打たれ、宮将軍も上皇の拒絶にあった。


千二百十九年(承久元年)、内裏守護(だいりしゅご)である源頼茂(みなもとのよりしげ)が西面武士に襲われて内裏の仁寿殿に籠って討死を遂げる。

その変事の際、火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。

この原因については頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が後鳥羽上皇の討幕の意図を知ったからなど諸説ある。

この為、後鳥羽上皇は堀川通具(ほりかわ みちとも)を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。

だが、東国の地頭たちはこれを拒絶した為、最終的には西国からの費用で再建される事になった。

ただし、その東国の地頭の役不調にかかわる背景として朝幕関係の悪化があったのか、朝廷や幕府に強制的に徴収する力がなかったのかについては不明である。

この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった。


千二百二十一年(承久三年)五月十四日、後鳥羽上皇は、時の鎌倉幕府執権・北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、鎌倉幕府の大軍に完敗。

承久の乱完敗からわずか二ヶ月後の七月九日、十九万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・北条泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。

父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。

これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。

さらに、在位わずか三ヶ月足らずの仲恭天皇(当時四歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を踏んでいない後高倉院が院政をみることになった。

鎌倉幕府の成立大略


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# by mmcjiyodan | 2018-02-28 18:29