淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)は、永きに渡ってその存在を消されていた天皇である。
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、明治時代になってから諡号(しごう)を付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ば、諱は大炊(おおい)であり、践祚(即位宣言)前は大炊王(おおいおう)と称された。
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代天皇=大友皇子)・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/第八十五代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「淳仁天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。
淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の皇子・舎人親王(とねりしんのう)の七男・大炊王(おおいおう)として誕生する。
しかし大炊王(おおいおう)は、天皇の孫でありながら官位を受ける事もなく、存在が注目される事もなかった。
大炊王(おおいおう)は、七百五十五年に唐で安禄山の乱が発生した際には九州の警備強化にあたる。
時の権力者・藤原仲麻呂が朝鮮半島・新羅(シルラ)討伐を強行しようとしこれを許可するが、ただし後の称徳天皇(しょうとくてんのう)=孝謙上皇(こうけんてんのう)により実現しなかった。
七百五十六年に没した聖武天皇(しょうむ てんのう)の遺言によって新田部親王(にいたべしんのう)の子の道祖王(ふなどおう)が立太子する。
ところが、七百五十七年四月(天平勝宝九年三月)に孝謙天皇によって道祖王(ふなどおう)は廃され、四日後に、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王(おおいおう)が立太子した。
大炊王(おおいおう)は藤原仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。
また、舎人親王(とねりしんのう)の母である新田部皇女(にいたべのひめみこ)は天智大王(てじちおおきみ/第三十八代天皇)の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であった。
大炊王(おおいおう)は、七百五十八年(天平宝字二年)に孝謙天皇から譲位を受け、天子の位を受け継ぐ践祚(せんそ)・即位(そくい)した。
同時に孝謙天皇は、太上天皇(だじょうてんのう/孝謙上皇)となった。
しかし践祚(せんそ)後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の二字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。
また仲麻呂は官位を唐風の名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。
七百六十年(天平宝字四年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。
同年、光明皇太后が薨去するが、仲麻呂は天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌七百六十一年(天平宝字五年)天皇と上皇は小治田宮(おはりだのみや)や保良宮(ほらのみや)に行幸して保良宮を「北宮(ほくきょう)」とした。
ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇(こうけんじょうこう/第四十六代天皇)は看病していた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになる。
仲麻呂の進言により天皇(大炊王=淳仁)がこれを諫めたところ上皇(孝謙)は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。
七百六十二年六月二十八日(天平宝字六年六月三日)、孝謙上皇(こうけんじょうこう)は再び天皇大権を掌握する事を目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。
この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇(じゅんにんてんのうが依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。
七百六十四年(天平宝字八年)九月、孝謙上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、淳仁天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り淳仁天皇は最大の後見人を失った。
淳仁天皇が乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている。
この恵美押勝の乱に際して、恵美押勝(藤原仲麻呂)は淳仁天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた。
乱の翌月、淳仁天皇は孝謙上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告される。
五日後の七百六十四年十一月十一日(天平宝字八年十月十四日)、淳仁天皇は親王の待遇をもって淡路国に流され、淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚(ちょうさく/二度目の践祚)して称徳天皇となった。
しかし、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。
この為、危機感をもった称徳天皇(孝謙上皇)は、翌七百六十五年(天平神護元年)二月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。
同七百六十五年、淳仁廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中に病死したとされるが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われた事を示す記録も存在していない。
敵対した称徳天皇(孝謙上皇)の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られ、千八百七十三年(明治六年)、淳仁廃帝は同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。
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by mmcjiyodan
| 2018-02-27 11:47
元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)は、天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女・氷高皇女(ひたかひめみこ)として生まれる。
天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武十一年(六百八十二年)八月に、氷高皇女(ひたかひめみこ)の病により、罪人百九十八人が恩赦されている。
翌天武十二年(六百八十三年)、三歳下の同母弟・珂瑠(のちの文武天皇)が誕生する。
氷高皇女(ひたかひめみこ)=元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)の父は、天武天皇と持統天皇(女帝)の子である草壁皇子、母は元明天皇(げんめいてんのう/女帝)である。
その氷高皇女(ひたかひめみこ)は、文武天皇の姉でもある。
元正天皇(げんしょうてんのう)は、日本の女帝としては五人目の即位であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であった。
対して、氷高皇女(ひたかひめみこ)には結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
元正天皇(げんしょうてんのう)在位は、七百十五年から七百二十四年までの九年間と、次天皇成長までのつなぎの女帝らしく短い。
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by mmcjiyodan
| 2018-01-28 16:12
元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)は、藤原京から平城京へ遷都、「風土記」編纂の詔勅を出し、先帝・文武天皇(もんむてんのう)から編纂が続いていた「古事記」を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
元明天皇(げんめいてんのう)は、天智天皇の皇女で阿陪皇女(あへのひめみこ)を名乗っていた。
持統天皇とは関係が複雑で、父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。
さらに、大友皇子(弘文天皇)は異母兄であり、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子(くさかべのみこ)の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母である。
天武八年(六百七十九年)頃、阿陪皇女(あへのひめみこ/元明女帝)は、一歳年下である甥の草壁皇子(くさかべのみこ)と結婚する。
天武九年(六百八十年)に氷高皇女(ひたかのひめみこ)を、天武十二年(六百八十三年)に珂瑠皇子(かるのみこ)を産んだ。
天武十年(六百八十一年)に夫の草壁皇子(くさかべのみこ)が皇太子となるものの、持統三年(六百八十年)に草壁皇子(くさかべのみこ)即位することなく早世する。
姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年八月(六百九十七年)に息子の珂瑠皇子(かるのみこ)が文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)として十五歳で即位し、同日阿陪皇女(あへのひめみこ)自身は皇太妃(太上天皇代)となった。
しかし慶雲四年(七百七年)、息子の文武天皇が病に倒れ、二十五歳で崩御してしまう。
残された孫の首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)はまだ幼かったため、阿陪皇女(あへのひめみこ)は中継ぎとして、初めて皇后を経ないで元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)として即位した。
慶雲五年(七百八年)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので、文武天皇(もんむてんのう)は年号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。
この時期は大宝元年(七百一年)に作られた大宝律令(たいほうりつりょう)を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等(ふじわらふひと)を重用した。
和銅三年(七百十年)、文武天皇(もんむてんのう)は藤原京から平城京に遷都した。
左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣・藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
和銅五年(七百十二年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。
和銅五年には天武天皇の代からの勅令であった「古事記」を献上させ、翌和銅六年(七百十三年年)には「風土記」の編纂を詔勅した。
和銅八年(七百十五年)には郷里制が実施されたが、同年、文武天皇(もんむてんのう)は自身の老いを理由に譲位する事となる。
孫の首皇子(おびとのみこ)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(ひたかのひめみこ/元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
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by mmcjiyodan
| 2018-01-28 15:57
日本の律令律令(りつりょう)制度は、蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)が大和朝廷の実権を握っていた大和朝廷・用明大王(ようめいおおきみ/天皇・第三十一代)の御世当時、中国・唐帝国のものを参考に日本の律令制度は作られた。
しかし当初は唐の律令をそのまま受け入れて制定したので日本の国情に則さないものが多く、徐々に修正を加えて日本の国情に合う様な律令を完成させるまでには、かなりな歳月を費やしている。
七世紀後半、当時のヤマト王権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。
その集大成が、第四十代・天武天皇の御世である六百八十一年から二十年を費やした大宝律令の完成であった。
七百年(文武四年)に令(れい)がほぼ完成し、残った律(りつ)の条文作成が行われ、七百一年(大宝元年八月三日)、第四十四代女帝・元正天皇の御世である大宝年間に大宝律令として完成した。
これにより、日本の律令制が成立したとされている。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。
刑法にあたる六巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる十一巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。
役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
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by mmcjiyodan
| 2018-01-27 21:24
初期日本の神話伝説の元を正せば、日本列島の原住民である蝦夷族(えみしぞく)の土地と政治的支配権を奪った後発の渡来部族が、相対的には少数の支配階級・氏族に納まった事に始まっている。
渡来氏族が、土地と蝦夷(えみし)の支配権の正統性確立の為に捏造(ねつぞう/でっち上げ)たのが古事記・日本書紀の天孫降臨伝説などの神話伝説である。
つまり当初は、大国主(後の天皇)を中心とした中央の大和朝廷と、地方の国主(くにぬし)=国造(くにのみやっこ・こくぞう)=県主(あがたぬし)が中央と地方を分担して治めている。
その中央と地方とを分担して治める特殊階級を、氏姓(しせい)を名乗る氏族として、自らを「神」と名乗って氏神(うじがみ)=氏上(うじがみ)=鎮守(神)様が地方に定着して行く。
天からの降臨神(氏族)が支配する大和国や地方の土地としての正統性の証明に、古事記・日本書紀の捏造(ねつぞう)に依る天皇制の確立意図や神社伝承だった。
そしてこの捏造(ねつぞう)伝承を日本列島の津々浦々まで伝播の画策をする役目を秘密裏に負ったのが、役小角(えんのおずぬ)率いる初期の修験道士だった。
誤解されては困るが、例え出発点が天孫降臨伝説や天皇制の根拠が歴史的な捏造(ねつぞう)であっても、二千年以上の歴史が在る天皇制の現在や各神社それぞれの歴史は、長期に渡り現存するのだからその現在を否定する訳では無い。
つまり日本神話伝説の根底に在るのは「感性」の歴史伝説であり、論理的な「理性」の歴史とは相容れないものである。
だとしても、現実的でない天孫降臨伝説などの伝説のそこは、当時の統治上のフィクション(虚構)であり、これを歴史的事実として主張してはならない。
正しい日本史を学ぶ者としては、これは綺麗事にフィクション(虚構)を創作して歴史や人間の醜い部分を覆い隠すか、シリアス(まじめ/本気)に歴史捏造の意図を曝(さら)け出すのかの問題ではある。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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| 2017-12-28 11:13