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最上氏(もがみし)と最上義光(もがみよしあき)

最上氏(もがみし)は、清和源氏足利氏の支流であり、三管領の一つ足利流・斯波氏の分家にあたる。

最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。

南北朝時代の延文期(千三百五十六年 - 千三百六十年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、山形城を築城し本拠とする。


出羽国按察使・斯波氏分家は、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称した事を機に所領の最上郡に因んで最上氏を称する事となった。

なお、山形を領した事から、山形氏と表記される事もある。

故に最上氏(もがみし)は、斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれる事がある。

最上氏(もがみし)は、室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、後に出羽国の戦国大名として成長した。


最上氏初代・斯波兼頼以降、古代朝臣(あそん)・大江氏の支流である出羽国最上郡の南朝勢力・寒河江氏(さがえうじ)を、千三百六十八年の漆川の戦いで討伐一掃する。

兼頼は、二代直家・三代満直が最上郡・村山郡各地へ子らを分散配置する事により勢力を伸張するなど、室町時代に最初の最盛期を迎える。

しかし千四百六十九年(長禄四年)、五代義春の、古河公方討伐の御教書が最上氏とともに天童氏にも届けられるなど、分散配置した一族が独立傾向を強めていく。

また、庄内地方を納める大宝寺氏が出羽守を得るなど、中央での斯波氏の勢力低下の影響がこの地方にも見られていた。


千五百四年(永正元年)、最上義定が第九代の家督を継ぐと、後継者争いをする寒河江氏に三度攻め込み、実質的な傘下に置いた。

千五百十二年(永正九年)庄内で大宝寺氏と砂越氏が争うと、勝者の村山地方への進出を警戒し、義定は寒河江まで軍を進めた。

千五百十四年(永正十一年)義定は、侵攻した伊達氏と長谷堂城で戦って敗北し、伊達稙宗の妹を義定が娶(めと)り和睦した。

義定が後継男子を成さないまま死去すると、庶流中野氏から迎えた当時二歳の最上義守を傀儡(かいらい)として、伊達氏の介入を招いた。


戦国時代に入って伊達氏内部に天文の乱が起こると、成人した最上義守は伊達氏から長谷堂城を奪還して独立し、戦国大名の道を歩み始める。

義守の勢力拡張戦略は、千五百六十年(永禄三年)の寒河江氏攻めの失敗で頓挫するが、外交面では嫡男最上義光に将軍・足利義輝の偏諱を賜り拝謁し、また御所号を賜るなど一定の成果をあげる結果を得た。

また義守は、娘の義姫を伊達輝宗へ嫁がせ、義姫は伊達政宗を生んでいる。


最上義光の家督相続の際に父子相克の争い(天正最上の乱)が起こるが、義光が家督相続を果たす。

以後、義光は庶族の天童氏、近隣の白鳥氏・寒河江氏を滅ぼし最上郡および村山郡を平定する。

さらには、千五百八十五年から千五百八十六年(天正十五年から十六年)庄内地方をめぐり大宝寺氏・上杉氏と争い、また大崎氏を攻めた伊達氏を破り壊滅寸前まで追い詰めた。

しかし義光は、同時期十五里ヶ原の戦いで敗れ庄内地方への影響力を失う。

義光は惣無事令違反を訴えたが庄内は上杉氏領となり、この裁定は両家に禍根を残した。


千五百九十年(天正十八年)、義光は覇業を推し進める豊臣秀吉小田原征伐を機に臣従して本領を安堵され、山形城を居城にして二十四万石を領する。

翌千五百九十一年(天正十九年)には、最上家は雄勝郡を獲得した。


その後、最上義光は、娘・駒姫を関白・豊臣秀次の側室にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。

これ以前より義光は徳川家康に接近していたが、さらに豊臣氏と距離を置き徳川氏への傾倒を強めた。


秀吉の死後関ヶ原の戦いが起こると、義光は東軍に組し、西軍の雄である上杉景勝の侵攻を退ける「慶長出羽合戦」を戦う。

さらに翌年、上杉氏の本領から隔絶していた庄内へ攻め込み、上杉勢を駆逐した。

関ヶ原戦後に、最上氏はその恩賞で加増される。

さらに千六百二年(慶長七年)、置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺を佐竹氏との領土交換により雄勝郡・平鹿郡と引き換えて手に入れる。

義光は、計五十七万石(実高は百万石とも称する)を領する大大名になり、最上氏は二度目の最盛期を迎える。


江戸時代に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子・義康の暗殺事件が起こる。

以降も家中の内紛はやまず、千六百二十二年(元和八年)、義光の孫・義俊の代には最上騒動が起こった。

義俊は家中の信望を失っており、最上氏は騒動を理由に幕命により改易される事となった。


この改易、宗家の斯波武衛家が滅亡していたので、斯波氏の流れをくむ最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に一万石の知行を改めて与えられた。

しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったために五千石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、子孫は交代寄合(大名待遇格)格・旗本扱い として存続した。

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by mmcjiyodan | 2018-03-30 17:54 | Comments(0)  

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/追認天皇)

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/第八十五代天皇)は歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の第四皇子で、嫡出の皇子として誕生して生後一か月の十一月二十六日に立太子する。

父の順徳天皇(じゅんとくてんのう)が祖父の後鳥羽上皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)と共に鎌倉幕府執権・北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、千二百二十一年(承久三年)四月二十日日に譲位され四歳で践祚(せんそ/即位宣言)される。

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、即位後わずか七十八日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされずしまいだった。

為に仲恭天皇は、九条廃帝(くじょうはいてい)、承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。

同千二百二十一年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北する。

後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。

同千二百二十一年七月九日に鎌倉幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。

仲恭天皇は幼児で、将軍・九條頼経の従兄弟である事からその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている。

仲恭天皇は、まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、千二百三十四年(天福二年)十七歳にて崩御する。

仲恭天皇は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代天皇=大友皇子)淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「仲恭天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。

鎌倉幕府の成立大略

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by mmcjiyodan | 2018-02-28 18:33 | Comments(0)  

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)

後鳥羽天皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天皇であり、後に上皇(じょうこう)である。

後鳥羽天皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)は、高倉天皇(たかくらてんのう/第八十代天皇)の第四皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子(七条院)で後白河天皇(ごしらかわてんのう/第七十七代天皇)の孫で、幼帝・安徳天皇(あんとくてんのう/第八十一代天皇)の異母弟に当たる。

後鳥羽天皇は文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。

鎌倉時代の千二百二十一年(承久三年)に、承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時に朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、千二百三十九年(延応元年)に同地で崩御した。


平安末期の千百八十三年(寿永二年)七月二十五日、源頼朝(みなもとよりとも)の従弟(いとこ)・木曾義仲(きそよしなか)の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇(あんとくてんのう)と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。

これに従わなかった後白河法皇(ごしらかわほうおう)と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。

この過程で木曾義仲(きそよしなか)や源頼朝(みなもとよりとも)への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚(しんしゅせんそ)問題」が浮上していた。

同千百八十三年八月に入ると、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。

結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた後白河法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。

後白河法皇は九条兼実(くじょうかねざね)にこの答えをもって勅問した。

九条兼実はこうした決断の下せない後白河法皇の姿勢に不満を示した。

だが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚(しんしゅせんそ)」に賛同し、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると「継体天皇先例説」を主張した。

ただし「日本書紀」には「継体天皇先例説」に合致する記述はなく兼実の誤認と考えられているが、兼実は「日本書紀にはこうしたと記述がある」と勅答している。

千百八十三年八月十日には、法皇が改めて「継体天皇先例」について左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。

そのうちの藤原俊経(ふじわらのとしつね)が出した勘文が「伊呂波字類抄ー乃ー璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なのでー正当な持主の下にー必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。

新帝の候補者として義仲は北陸宮(ほくろくのみや/以仁王(もちひとおう)の第一王子)を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である四歳の尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させる事に決めた。

この即位には、丹後局(たんごのつぼね)の進言があったという。

千百八十三年八月二十日後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚(せんそ)し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例に倣って実施された。

即位式は、千百八十四年(元暦元年)七月二十八日に、同様に神器のないままに実施された。

安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため、千百八十三年(寿永二年)から平家滅亡の千百八十五年(文治元年)まで、安徳天皇と後鳥羽天皇の在位期間が二年間重複している。


壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収される事はなかった。

千百八十七年(文治三年)九月二十七日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念された。

以後も、千百九十年(建久元年)一月三日に行われた天皇の元服の儀なども神器が揃わないまま行われた。

千二百十年(承元四年)の順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の践祚(せんそ)に際して、後鳥羽天皇は既に上皇になっていた。

後鳥羽天皇は、奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなす事とした。

だが後鳥羽天皇は、その二年後の千二百十二年(建暦二年)になって検非違使であった藤原秀能(ふじわらのひでよし)を西国に派遣して宝剣探索にあたらせている。


伝統が重視される宮廷社会に於いて、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種の「コンプレックス」であり続けた。

また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていない事と天皇の不徳が結び付けられる場合があった。

後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服する為に強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある。


千百九十二年(建久三年)三月までは、後白河法皇による院政が続いた。

後白河法皇(院)の死後は、関白・九条兼実(くじょうかねざね)が朝廷を指導した。

兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となった。

これは内大臣・土御門通親(つちみかどみちちか/源通親)の策謀によるといわれる。

千百九十六年(建久七年)、通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。

この建久七年の政変には、頼朝の同意があったとも言う。


千百九十八年一月十一日、後白河天皇は土御門天皇に譲位し法皇に成る。

以後、土御門、順徳、仲恭と千二百二十一年(承久三年)まで、後白河は三代二十三年間に亘り上皇として院政を敷く。

後白河は上皇になると、旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であったが、土御門通親をも排し殿上人を整理して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採った。

千百九十九年(正治元年)の頼朝の死後も、後白河法皇は台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。

千二百二年(建仁二年)に九条兼実が出家し、土御門通親が急死した。

既に後白河法皇・源頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。


翌千二百三年(建久三年)の除目は後鳥羽上皇主導で行われたと、藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は「除目偏出自叡慮云々」と「明月記」の建久三年一月十三日条に記している。

また、後鳥羽上皇は公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。

その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」と「明月記」の建暦元年八月六日条に評している。

その後、源千幡が三代将軍になると、後鳥羽上皇が自らが千幡を「実朝」の名乗りを定めたと「猪隈関白記」建仁三年九月七日条に記してある。

実朝を取りこむ事で幕府内部への影響力拡大を図り、幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍」の構想を打ち出してきた。

この事から、朝幕関係は一時安定期を迎えるが、実朝が甥の公暁に暗殺された事でこの関係にも終止符が打たれ、宮将軍も上皇の拒絶にあった。


千二百十九年(承久元年)、内裏守護(だいりしゅご)である源頼茂(みなもとのよりしげ)が西面武士に襲われて内裏の仁寿殿に籠って討死を遂げる。

その変事の際、火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。

この原因については頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が後鳥羽上皇の討幕の意図を知ったからなど諸説ある。

この為、後鳥羽上皇は堀川通具(ほりかわ みちとも)を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。

だが、東国の地頭たちはこれを拒絶した為、最終的には西国からの費用で再建される事になった。

ただし、その東国の地頭の役不調にかかわる背景として朝幕関係の悪化があったのか、朝廷や幕府に強制的に徴収する力がなかったのかについては不明である。

この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった。


千二百二十一年(承久三年)五月十四日、後鳥羽上皇は、時の鎌倉幕府執権・北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、鎌倉幕府の大軍に完敗。

承久の乱完敗からわずか二ヶ月後の七月九日、十九万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・北条泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。

父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。

これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。

さらに、在位わずか三ヶ月足らずの仲恭天皇(当時四歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を踏んでいない後高倉院が院政をみることになった。

鎌倉幕府の成立大略


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by mmcjiyodan | 2018-02-28 18:29 | Comments(0)  

淳仁天皇(じゅんにんてんのう/明治三年追認天皇)

淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)は、永きに渡ってその存在を消されていた天皇である。

淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、明治時代になってから諡号(しごう)を付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ば、諱は大炊(おおい)であり、践祚(即位宣言)前は大炊王(おおいおう)と称された。

淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代天皇=大友皇子)仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/第八十五代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「淳仁天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。


淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の皇子・舎人親王(とねりしんのう)の七男・大炊王(おおいおう)として誕生する。

しかし大炊王(おおいおう)は、天皇の孫でありながら官位を受ける事もなく、存在が注目される事もなかった。


大炊王(おおいおう)は、七百五十五年に唐で安禄山の乱が発生した際には九州の警備強化にあたる。

時の権力者・藤原仲麻呂が朝鮮半島・新羅(シルラ)討伐を強行しようとしこれを許可するが、ただし後の称徳天皇(しょうとくてんのう)=孝謙上皇(こうけんてんのう)により実現しなかった。

七百五十六年に没した聖武天皇(しょうむ てんのう)の遺言によって新田部親王(にいたべしんのう)の子の道祖王(ふなどおう)が立太子する。

ところが、七百五十七年四月(天平勝宝九年三月)に孝謙天皇によって道祖王(ふなどおう)は廃され、四日後に、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王(おおいおう)が立太子した。


大炊王(おおいおう)は藤原仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。

また、舎人親王(とねりしんのう)の母である新田部皇女(にいたべのひめみこ)は天智大王(てじちおおきみ/第三十八代天皇)の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であった。


大炊王(おおいおう)は、七百五十八年(天平宝字二年)に孝謙天皇から譲位を受け、天子の位を受け継ぐ践祚(せんそ)・即位(そくい)した。

同時に孝謙天皇は、太上天皇(だじょうてんのう/孝謙上皇)となった。

しかし践祚(せんそ)後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の二字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。

また仲麻呂は官位を唐風の名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。


七百六十年(天平宝字四年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。

同年、光明皇太后が薨去するが、仲麻呂は天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌七百六十一年(天平宝字五年)天皇と上皇は小治田宮(おはりだのみや)や保良宮(ほらのみや)に行幸して保良宮を「北宮(ほくきょう)」とした。

ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇(こうけんじょうこう/第四十六代天皇)は看病していた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛するようになる。

仲麻呂の進言により天皇(大炊王=淳仁)がこれを諫めたところ上皇(孝謙)は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。


七百六十二年六月二十八日(天平宝字六年六月三日)、孝謙上皇(こうけんじょうこう)は再び天皇大権を掌握する事を目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。

この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇(じゅんにんてんのうが依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。


七百六十四年(天平宝字八年)九月、孝謙上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、淳仁天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り淳仁天皇は最大の後見人を失った。

淳仁天皇が乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている。

この恵美押勝の乱に際して、恵美押勝(藤原仲麻呂)は淳仁天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた。


乱の翌月、淳仁天皇は孝謙上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告される。

五日後の七百六十四年十一月十一日(天平宝字八年十月十四日)、淳仁天皇は親王の待遇をもって淡路国に流され、淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚(ちょうさく/二度目の践祚)して称徳天皇となった。

しかし、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。

この為、危機感をもった称徳天皇(孝謙上皇)は、翌七百六十五年(天平神護元年)二月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。

同七百六十五年、淳仁廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中に病死したとされるが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われた事を示す記録も存在していない。

敵対した称徳天皇(孝謙上皇)の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。


千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られ、千八百七十三年(明治六年)、淳仁廃帝は同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。

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大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
平安時代(へいあんじだい)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2018-02-27 11:47 | Comments(0)  

元正天皇(げんしょうてんのう/女帝)

元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)は、天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女・氷高皇女(ひたかひめみこ)として生まれる。

天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武十一年(六百八十二年)八月に、氷高皇女(ひたかひめみこ)の病により、罪人百九十八人が恩赦されている。

翌天武十二年(六百八十三年)、三歳下の同母弟・珂瑠(のちの文武天皇)が誕生する。

氷高皇女(ひたかひめみこ)=元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)の父は、天武天皇と持統天皇(女帝)の子である草壁皇子、母は元明天皇(げんめいてんのう/女帝)である。

その氷高皇女(ひたかひめみこ)は、文武天皇の姉でもある。


元正天皇(げんしょうてんのう)は、日本の女帝としては五人目の即位であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であった。

対して、氷高皇女(ひたかひめみこ)には結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。

元正天皇(げんしょうてんのう)在位は、七百十五年から七百二十四年までの九年間と、次天皇成長までのつなぎの女帝らしく短い。


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by mmcjiyodan | 2018-01-28 16:12 | Comments(0)  

元明天皇(げんめいてんのう/女帝)

元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)は、藤原京から平城京へ遷都、「風土記」編纂の詔勅を出し、先帝・文武天皇(もんむてんのう)から編纂が続いていた「古事記」を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

元明天皇(げんめいてんのう)は、天智天皇の皇女で阿陪皇女(あへのひめみこ)を名乗っていた。

持統天皇とは関係が複雑で、父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。

さらに、大友皇子(弘文天皇)は異母兄であり、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子(くさかべのみこ)の正妃であり、文武天皇元正天皇の母である。


天武八年(六百七十九年)頃、阿陪皇女(あへのひめみこ/元明女帝)は、一歳年下である甥の草壁皇子(くさかべのみこ)と結婚する。

天武九年(六百八十年)に氷高皇女(ひたかのひめみこ)を、天武十二年(六百八十三年)に珂瑠皇子(かるのみこ)を産んだ。

天武十年(六百八十一年)に夫の草壁皇子(くさかべのみこ)が皇太子となるものの、持統三年(六百八十年)に草壁皇子(くさかべのみこ)即位することなく早世する。


姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年八月(六百九十七年)に息子の珂瑠皇子(かるのみこ)が文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)として十五歳で即位し、同日阿陪皇女(あへのひめみこ)自身は皇太妃(太上天皇代)となった。

しかし慶雲四年(七百七年)、息子の文武天皇が病に倒れ、二十五歳で崩御してしまう。

残された孫の首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)はまだ幼かったため、阿陪皇女(あへのひめみこ)は中継ぎとして、初めて皇后を経ないで元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)として即位した。


慶雲五年(七百八年)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので、文武天皇(もんむてんのう)は年号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。

この時期は大宝元年(七百一年)に作られた大宝律令(たいほうりつりょう)を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等(ふじわらふひと)を重用した。


和銅三年(七百十年)、文武天皇(もんむてんのう)は藤原京から平城京に遷都した。

左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣・藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

和銅五年(七百十二年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。

和銅五年には天武天皇の代からの勅令であった「古事記」を献上させ、翌和銅六年(七百十三年年)には「風土記」の編纂を詔勅した。


和銅八年(七百十五年)には郷里制が実施されたが、同年、文武天皇(もんむてんのう)は自身の老いを理由に譲位する事となる。

孫の首皇子(おびとのみこ)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(ひたかのひめみこ/元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。


また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。


◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。

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by mmcjiyodan | 2018-01-28 15:57 | Comments(0)  

大宝律令(たいほうりつりょう)

日本の律令律令(りつりょう)制度は、蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)大和朝廷の実権を握っていた大和朝廷・用明大王(ようめいおおきみ/天皇・第三十一代)の御世当時、中国・唐帝国のものを参考に日本の律令制度は作られた。

しかし当初は唐の律令をそのまま受け入れて制定したので日本の国情に則さないものが多く、徐々に修正を加えて日本の国情に合う様な律令を完成させるまでには、かなりな歳月を費やしている。


七世紀後半、当時のヤマト王権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。

その集大成が、第四十代・天武天皇の御世である六百八十一年から二十年を費やした大宝律令の完成であった。


七百年(文武四年)に令(れい)がほぼ完成し、残った律(りつ)の条文作成が行われ、七百一年(大宝元年八月三日)、第四十四代女帝・元正天皇の御世である大宝年間に大宝律令として完成した。

これにより、日本の律令制が成立したとされている。


大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。

刑法にあたる六巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる十一巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。


この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。

役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。


また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。


◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。

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by mmcjiyodan | 2018-01-27 21:24 | Comments(0)  

初期日本の神話伝説由来(しょきにほんのしんわでんせつゆらい)

初期日本の神話伝説の元を正せば、日本列島の原住民である蝦夷族(えみしぞく)土地と政治的支配権を奪った後発の渡来部族が、相対的には少数の支配階級・氏族に納まった事に始まっている。

渡来氏族が、土地と蝦夷(えみし)の支配権の正統性確立の為に捏造(ねつぞう/でっち上げ)たのが古事記日本書紀天孫降臨伝説などの神話伝説である。

つまり当初は、大国主(後の天皇)を中心とした中央の大和朝廷と、地方の国主(くにぬし)=国造(くにのみやっこ・こくぞう)県主(あがたぬし)が中央と地方を分担して治めている。

その中央と地方とを分担して治める特殊階級を、氏姓(しせい)を名乗る氏族として、自らを「神」と名乗って氏神(うじがみ)=氏上(うじがみ)=鎮守(神)様が地方に定着して行く。


天からの降臨神(氏族)が支配する大和国や地方の土地としての正統性の証明に、古事記・日本書紀の捏造(ねつぞう)に依る天皇制の確立意図や神社伝承だった。

そしてこの捏造(ねつぞう)伝承を日本列島の津々浦々まで伝播の画策をする役目を秘密裏に負ったのが、役小角(えんのおずぬ)率いる初期の修験道士だった。

誤解されては困るが、例え出発点が天孫降臨伝説や天皇制の根拠が歴史的な捏造(ねつぞう)であっても、二千年以上の歴史が在る天皇制の現在や各神社それぞれの歴史は、長期に渡り現存するのだからその現在を否定する訳では無い。

つまり日本神話伝説の根底に在るのは「感性」の歴史伝説であり、論理的な「理性」の歴史とは相容れないものである。

だとしても、現実的でない天孫降臨伝説などの伝説のそこは、当時の統治上のフィクション(虚構)であり、これを歴史的事実として主張してはならない。

正しい日本史を学ぶ者としては、これは綺麗事にフィクション(虚構)を創作して歴史や人間の醜い部分を覆い隠すか、シリアス(まじめ/本気)に歴史捏造の意図を曝(さら)け出すのかの問題ではある。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-12-28 11:13 | Comments(0)  

オキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)

多少の個体差が在るので一律的な効果とは言えないが、「女性は一度男性と性交渉をしてしまうと、身体の中に何か「特別な物」が分泌されて、相手にすごく執着してしまう」と言う現象がある。

その「特別な物」が、オキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)である。


このオキシトシン(脳内愛情麻薬)は、一目惚れの作用をさせる「脳内ホルモン・フェール・エチル・アミン (トキメキホルモン)」の結果で発生する物質ではない。

つまり一方的な感情では無く、あくでも接触行為が実在してから発生する分泌ホルモンである。

食事や性行為の際に分泌放出される安全な脳内麻薬(快感ホルモン)・ベータ・エンドロフィンにうながされて発生する特別な分泌ホルモンがオキシトシン(脳内愛情麻薬)である。

オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれる脳内物質で、性行為以外では、女性が赤ちゃんに触れる時や母乳を飲ませる時、ペットに触れた時などにも分泌される。

この「抱擁ホルモン」とも言われるオキシトシンは、愛撫や抱擁などの皮膚接触や性交渉による子宮頚部(しきゅうけいぶ)への刺激によって女性の脳内に大放出される。

つまり女性には、性交渉をすると「オキシトシン」というホルモンが男性よりも多く分泌される。

このオキシトシンのパワーは強力で、分泌されると性交渉相手への愛情が強まり、無意識に離れ難(がた)くなる。

よく世間の評価では、「あの女性(ひと)、何であんな男から離れない?」と言う事例が存在するが、これはオキシトシン(脳内愛情麻薬)の為せる現象である。

産んだ子を捨ててまで愛人と出奔(しゅっぽん)する女性も、オキシトシン(脳内麻薬)効果が働いての間違いと言える。


このオキシトシン(脳内麻薬)効果の証明は、日本の旧来の親同士が勝手に決めた婚姻形態で説明が着く。

以前の日本の婚姻形態では、親同士が勝手に決めた婚姻や親の都合の政略結婚で「新婚初夜まで相手の顔さえ見た事が無かった。」なんて事も多々在った。

しかし初夜で初対面だったとしても、その夫婦が結婚後に関係が成立するのはその後の性交渉に依るオキシトシン(脳内愛情麻薬)の効果である。

現代の建前では違うかも知れないが、実は男性と女性はその気になれば、昔も今も愛情など無くとも性交行為は出来る。

その性交行為で女性がイク(絶頂)に達してしまえば、その快感がオキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)を発生し、相手に女性の愛情が芽生える理屈が成立する。


小論【美しくなれる興奮の解説】をお勧めします。


性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。

詳しくは・関連小論記事
吊橋効果(つりばしこうか)の心理を検証する】を参照。
オレオレ詐欺と占術霊感商法】を参照。
私の愛した日本の性文化】を参照。
美しくなれる興奮の解説】を参照。
地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】を参照。

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by mmcjiyodan | 2017-11-15 14:50 | Comments(0)  

信長の首塚伝承(西山本門寺)

さて、本能寺の変後に行方(ゆくえ)が判らない織田信長についての伝承は多々在るが、筆者は有力と思える「信長の首塚伝承」を有する富士宮・西山本門寺(にしやまほんもんじ)を紹介する。

静岡県富士宮市西山に、西山本門寺(にしやまほんもんじ)は在る。

西山本門寺(にしやまほんもんじ)の開山は、日蓮(にちれん)の高弟六老僧の筆頭であり、白蓮阿闍梨と称する鎌倉時代の僧侶・日代である。

日代は日興門流の祖であり、富士大石寺の開山にして日蓮正宗第二祖に列せられる 。

その西山本門寺(にしやまほんもんじ)の寺伝によると、本能寺の変の折に第十八世貫主だったのは日順である。

日順の父・原宗安(はらむねやす・原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊(ひいらぎ)を植え首塚に葬ったという。

その首塚上の柊(ひいらぎ)、現在では静岡県指定天然記念物の大柊(だいひいらぎ)として健在である。

つまり信長公の御遺体も、首から上が無くては誰の身印(みしるし)と特定など出来ない理屈である。


僅かな供回りを連れて本能寺に泊まったこの信長の本能寺宿泊には、囲碁の当世第一人者である顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)・寂光寺(じゃっこうじ)の僧・日海(にっかい)も帯同していた。

安土桃山江戸時代に 織田信長・豊臣秀吉徳川家康の三英傑に仕えたとされる囲碁の棋士・本因坊日海(ほんいんぼうにっかい)=(本因坊算砂/ほんいんぼうさんさ)である。

実はこの僧・日海(にっかい)が、この「信長の首塚伝承」には欠かせない存在だった。

本能寺の変前日、織田信長が茶会を催したのだが、その茶会の流れで信長お気に入りの囲碁の棋士・日海をまだ傍(かたわら)に置いていたのだ。


織田信長(おだのぶなが)については第三巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第三巻をお読み下さい。

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第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2017-11-09 16:47 | Comments(0)