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本能寺の変(ほんのうじのへん)

本能寺は、天下布武(てんかふぶ)を目指した一代の英雄、織田信長の最後の地と言われている。

実は、「本能寺の変」当時の本能寺の所在地は、現在の本能寺の位置とは違っている。

都の中央を内裏まで貫く朱雀大路から東へ七本目の油小路が、最南端の九条大路から皇宮御所の内裏(だいり)に向かって十八本目の高辻小路と十九本目の五条坊門小路との間の交わる場所が、当時の本能寺の所在地だった。


千五百八十二年(天正十年)六月の始め、明智光秀は一万三千騎の軍勢を率いて丹波亀山城を出立する。

一万三千騎の大軍は、三草(みくさ)越え街道を粛々(しゅくしゅく)と進んでいた。

奇妙な事に、この時畿内には光秀軍以外に、これと言う大軍勢は居なかった。

粛々(しゅくしゅく)と進む軍勢のざわめき、荷駄の音、時折聞こえる軍馬の嘶き、初夏の草息切れの中、明智勢一万三千騎の向かうは西方、中国地方の大々名、毛利家攻めの羽柴秀吉加勢・・・・の筈だった。

夕刻、その軍勢が突如行き先を変えた。

光秀が、東に向きを変え、老の山(おいのやま)から山崎より摂津の地を経て、京の都に着いた時は、既に明け方近くであった。

都はまだ覚めやらず、静まり返っていた。

ふと天空を見上げると、そこには変わらぬ月があった。

光成は馬上で、思わず白みかけた月に向かって手を合わせた。

都の家並みが影を帯びて静かに佇(たたず)んでいる。

都は、信長の築いた四方攻めの結界の中で、静かに眠って居たのである。

桂川を渡った時点では、まだ藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智光春(秀満)など家中の主だった者数名が老の山峠で打ち明けられて、密かに承知しているだけだった。


織田信長は本能寺に居た。

夜明けを待つ静寂に包まれた本能寺は、石垣土塁を持ち堀一重に囲まれた小城郭の様な寺である。

その本能寺の造作が、今は何もかも黒々と静まり返っている。

先程人払いをして、一人で庭にいた。

夏虫の声が聞こえる。

野望は漸く、信長は手が届く所にあった。

苦しい時、信長は月を見上げる。

月は僅かばかりに闇を遠ざけ、密かに安堵が訪れる。

孤高の信長には、他人には見せられない孤独がある。

「此処まで、我ながらよう来たものだ。」

立ちはだかっていた壁は、ことごとく打ち壊して、近隣に遮(さえぎ)るものは無くなっている。

「阿修羅と成りても、やらねばならぬ。」

信長には大願が目前に見えていた。

博多の豪商・島井宗室や女達を交えた茶会の後、先ほどまで森欄丸を相手に酒(ささ)をたしなみ、珍しく酔って眠気を催していた信長は、「ふぅ」と一息付いて庭から寝所に戻った。

床に入った後の事は、記憶にない。

確かに都は深い眠りに着いていた。

しかし、その静寂が突然破れ、古都の一角が震えた。

歴史が大きく動く瞬間だった。

夜が白み始めた早朝、法華宗本能寺は、一万三千の大軍に囲まれていた。

本能寺に居たのは森欄丸(もりらんまる)ら、「僅か小姓近習衆二百数十名に過ぎなかった」と言われ、大軍に囲まれては、寺の堀など一溜まりも無い。

欄丸(らんまる)が目にした寄せ手の軍勢の、そこかしこに翻(ひるがえ)っている旗印は「桔梗紋」である。

水色桔梗紋は、紛(まぎ)れもなく惟任日向(これとうひゅが/明智光秀)の軍勢だった。

織田信長の結界と光秀明智】に戻る。

「本能寺の変」には謎が多く、朝廷公家豊臣秀吉徳川家康その他多くの黒幕説がある。

大結界については、【本能寺の変、なぜ起こったかを仮説する。】を御一読下さい。

「本能寺の変」の謎については、小説・「光秀の本能寺(逆賊謀反は光秀に非ず、信長なり)」をお読み下さい。

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恐れ入りますが、「本能寺の変」の詳細につきましては本編第三巻をお読みください。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:42 | Comments(0)  

北条時政(ほうじょうときまさ)

頼朝の妻北条正子の父北条時政は、紛れ無き桓武(かんむ)平氏の血筋である。

桓武天皇から五代後の平直方(たいらのなおかた)が祖(基)である。

平直方は伊勢平氏・平貞盛平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)の乱の鎮圧に失敗、役を解かれて伊豆の国(いずのくに)に在住する。

父は平時方(たいらのときかた)と言った。

平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。

北条家は平家の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても、当時権勢を誇っていた平清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければ、たいした出世は望めない。

時方は伊豆の国(いずのくに)・北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。

その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。

平安末期、都から遠く離れた北条家に思いも拠らぬ転機が訪れる。

源氏の棟梁・源頼朝が伊豆の国(いずのくに)に流されて来て、その見張り役を平清盛に任せられたのである。

頼朝に目を着けたのが北条時政の娘・正子だった。

この北条正子の大胆な行動が、鎌倉幕府執権・北条得宗家の成立に結び着くのである。

娘の正子に引きずられるように源頼朝の旗揚げに与力した時政は、甲斐源氏・武田信義(たけだのぶよし/源信義)を味方に付ける説得に成功するなど成果を挙げる。

時政は、将軍・頼朝の義父として鎌倉幕府成立後に最有力の御家人となり、時政は七ヵ国の地頭を一度に務める惣追捕使(そうついほし)に補されるが、ちなみにこの職責は、奥州藤原家の最盛時をしのぐ規模の権限である。

しかし時政は是を長く勤めず自から鎌倉幕府中央に戻り、政権中枢の政務を担当するように成る。

その後二代将軍・源頼家(みなもとよりいえ)とその子・一幡(いちまん)を殺害、頼家・次男・公暁(くぎょう)をそそのかして三代・源実朝(みなもとさねとも)を殺害させて頼朝源氏の血を根絶やしにして北条執権家を確立した。

頼朝の死後執権と成った時政は、幾多の権力闘争をしかけて有力御家人を排除するに成功する。

しかし晩年は平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に就けようとして娘・正子と嫡男・北条義時の反撃に合い失脚する。

平賀朝雅(ひらがともまさ)と北条時政の失脚】を参照
北条得宗家】を参照

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:41 | Comments(0)  

本多忠勝(ほんだただかつ)

本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族である。

この本多氏は、あくまでも自称・通説の類であるが藤原氏北家・兼通流の二条家綱の孫と自称する右馬允秀豊が豊後国の本多郷を領した事からその時に本多氏と称し、その後裔がやがて三河国に移住したとされている。

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)本能寺の変が起きた時、徳川家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。

忠勝は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。

しかし徳川政権が確立するに従い、理由は定かでは無いが古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。

唯一考えられる理由が、我輩の推論通りに松平竹千代双子説であれば、本多家が家康から疎んじられる説明が着く。

この本多家、その後転封を繰り返して姫路藩などを経由し、本多家は三河岡崎藩五万石に落ち着いたが、幕閣の要職には恵まれなかった。

【松平竹千代双子説】についてはこの物語の第三巻の核心部分の一つですので【第三巻】をお読み下さい。


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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:30 | Comments(0)  

祭り(祀り)

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。

本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。

現在の社会合意では、誓約(うけい)の性交など理解出来ないとんでもない事である。

しかし時代背景を考えれば、部族混血に拠る「部族間の争いに対する平和の獲得」の神事は必然とも言え、当然考えられる知恵である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

神社の祭典は、時代の変遷に伴って現在のように大人しいものに成ったが、当初はエロチックなものだった。

そもそも日本列島の神・事代主(ことしろぬし)は、田の神(稲作神)である。

元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

日本の祭りのルーツは、「妙見祭」の北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、田の神(稲作神)・事代主(ことしろぬし)から始まった陰陽修験の影響を受けているから大抵は「乱交祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事だった。

そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。

そうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。

陰陽修験が、民衆を宗教的にリードした事は間違いがない。

勿論、初期の現実的な現象として武術を修めた「影の官憲」である修験道士を、村の恭順を示す為に歓待する村も多かった。

当然の事ながら、酒食に加え村娘を差し出してお相手に宛がうのは、当時の感覚では至極当り前だった。

そこを怠ると、無秩序に村娘に手を付けられる恐れがあるから、村側に最低限の選択権を確保するには、それも止む負えない処置だった。

或いはこの大神(狼)様相手の事を、「お祭り」と呼んだのかも知れない。

「祭り事」は統治の意味でもあり、「お祭りをする」は性交の隠語でもある。

祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らわぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、この辺りの民心を慮(おもんばか)ると、氏上(氏神/鎮守神)の祭りに事寄せ、神の前の暗闇で乱交を行なうそれ事態が、ある意味「民の氏族への反抗心が為せる事」と言う読み方も伺えるのである。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、異部族を混血化して単一民族に仕立てる事であり、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:27 | Comments(0)  

政(マツリゴト・祭事)

氏族が神の名を持って土地を治め、国を治めた証拠は、言葉として永く残っていた。

統治の基本は「恐れ(恐怖)」と「敬(うやま)い=(尊敬)」なのだが、恐れだけでは「窮鼠猫を咬む(困ればねずみも猫に反撃する)」事もあるから、統治者は敬(うやま)われなければならない。

そこで手っ取り早く統治者の権威の裏付けに利用されるのが信仰で、統治者が神に成ってしまえばそれ以上の「敬(うやま)い=(尊敬)」は無いのである。

「恐れ入りタテマツル。」

この意味を、貴方は考えた事が有るだろうか?

昔、と言ってもつい百五十年ほど前には「治める事(治政を施す事)」を、「政(マツリゴト)」と言ったが、この意味は言うまでも無く「祭事(マツリゴト)」である。

つまり、神の名を持って治政を施す事が「政(マツリゴト・祭事)」である。

そして、氏上(氏神)と言う名の治政を施す者は、神として「タテマツラレル(立て祭られる)」のである。

所が、その氏上(氏神)の治政を「潔しとはしない部族や勢力」が、必ず存在した。

「敬(うやま)い」、たて祀(奉/祭)らせる事で不服をかわすのだが、中には祀(祭)らわぬ者も居る。
言わば「反政府勢力」である。

そこで、統治する者を「タテマツラヌ(立て祭らぬ)」者達である「反政府勢力」の事を、「マツラワヌ(祭らわぬ)者達」と、呼ぶ事になる。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

そして政(祭り)には誓約(うけい)の意味合いがあり、その精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:21 | Comments(0)  

松浦高俊(まつらたかとし)

その松浦(まつら)党の中に、平清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、一族こぞって平家方に着いていた。

つまり松浦(まつら)党は、瀬戸内海に於ける「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」、「屋島の戦い(やしまのたたかい)」、「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」と言う一連の源平合戦に西国方(平家方)として参戦していた。


松浦氏の娘婿に、前九年の役にて源頼義源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で破れ、降伏して四国配流、後に九州に配流された宗任(むねとう)の子孫・安倍季任がいて、婿入りして松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)を名乗り、北部九州で勢力を拡大して行く。

松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近だったので、西国方(平家方)の水軍として活躍し、転戦している。

しかし元々弱い結合体の松浦(まつら)水軍の本流は壇ノ浦の戦いに形勢不利と悟って大半が源氏方に寝返り、平家討伐の源氏方大将・源義経(みなもとよしつね)の下に寝返る。

平家に反旗を翻した水軍・松浦(まつら)党は、伊予水軍・河野氏と連携して平氏討伐の功を挙げる。

為に松浦高俊(まつらたかとし)一党は孤立し、高俊(たかとし)は生き残ったが現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった。

松浦本流に裏切に遭った松浦高俊は長門国油谷に流されて旧来の安倍姓に復したが、裏切った本流の一部は松浦家として鎌倉時代、室町時代を経て戦国大名となり、江戸時代を平戸藩六万三千石として明治維新まで生き残った。

この松浦高俊(まつらたかとし)の子孫が長州・安部家で、近年総理候補や総理を輩出している山口県の名家・安部家である。

壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に飛ぶ。

参考【安倍姓二千年の歴史メモ】へ飛ぶ

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:18 | Comments(2)  

松平春嶽(しゅんがく/慶永・よしなが)

明治維新の動乱時に京で活躍した越前(福井県)藩主松平春嶽は、徳川御三卿・田安家からの養子ではあるが、藩の血統としては結城(ゆうき)秀康の子孫である。

ちなみに、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。

この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された構想に拠る意志が働いていた。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、明智光秀(あけちみつひで)や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)は、公武合体派ながら幕府親藩の藩主としては珍しく尊攘派勢力にも理解を示し、幕府に拠る長州・毛利藩(萩藩)征討に反対するなど、討幕軍からも一定の評価を得た人物である。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく)は明治維新動乱期の越前(福井)藩主だったが、生まれは徳川御三卿・田安家の八男坊として江戸城内・田安邸に産まれている。

十一歳の時、越前(福井)藩主松平斉喜(まつだいらなりさわ)養嗣子となり、斉喜(なりさわ)の死去によって越前(福井)藩主に就任した。

マシュー・ペリーが浦賀に来航した頃(千八百五十三年/嘉永六年)、二十六歳になっていた春嶽は強硬な鎖国攘夷論者で、海防強化を主張し水戸藩主徳川斉昭の海防参与任命を薩摩・島津藩世子・島津斉彬とともに働きかけて実現させている。

その後春嶽 (しゅんがく)は、総領事ハリスが下田に着任(千八百五十七年/安政三年)して通商開国を迫った時に鎖国攘夷では国際的に通用しないとして開国通商論者に転じている。

松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)は、後に伴に四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)と連携して幕政に関与を図り存在感を誇示した。

将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたが、千八百五十八年に幕府が朝廷の勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老・井伊直弼(いいなおすけ/彦根藩主)を詰問した。

所が井伊直弼の反撃に合い、その不時(勝手)登城を理由に、春嶽 (しゅんがく)は僅か三十一歳で隠居・謹慎に処せられた。

藩主を退(しりぞ)かされ江戸霊岸島に幽閉された春嶽 (しゅんがく)だったが、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されると謹慎を免除され、その後幕政参与を命じられている。

春嶽は参与に任じられると、公武間の対立を解消するための将軍・家茂の上洛を進言し、京都の尊攘派勢力対処策として、武力制圧ではなく公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策を主張し幕府にその意見を認めさせている。

千八百六十三年、春嶽三十六歳の時に将軍に先発して入京し、先に上京していた将軍後見職・一橋慶喜や守護職・松平容保とともに公武合体派勢力挽回に務めたが、京都の情勢は尊攘派に有利で、公武合体派連合策は挫折した。

同じ年に起こった「禁門の政変」に拠って攘派が失脚して公武合体派が政権を握ると、春嶽 (しゅんがく)は再び上洛し、慶喜・容保ら公武合体派諸侯とともに朝廷参与に任命される。

その後、朝廷参与を辞任、長州征討をにらんで陸軍総裁職に転出した松平容保に代って京都守護職に就いたりしたが、その間役職を引き受けたり離れたりの出入りが激しく、長州征討策に関しては最後まで反対だった阻止できず、幕府軍不利の戦況の最中に将軍家茂が大坂城で病没し休戦となっている。

徳川慶喜大政奉還、王政復古後は明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担う一方幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力して、明治維新後の初期にも重要な役割を果たしている。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:15 | Comments(0)  

御門(みかど)

この国(日本列島)は、永い歴史において帝(みかど)が治める「大和合の国」、つまり大和(やまと)の国だった。

帝(みかど・日本読み、中国読みはディ・テェィ)の語源であるが、元は御門(みかど)である。
これが、初期の神社の成り立ちと大きい関わりがある。

「御門(みかど)」と言う呼称であるが、門(もん/かど)に特別な意味があるのは、定住した部族が城砦集落(じょうさいしゅうらく)を築き外敵から部族を一括して守った事から、その出入り口に在る門(もん/かど)を「その部族の象徴」としたものを部族のリーダーに結び付け、そのリーダーを「御門(みかど)」と呼んだのではないだろうか。

そしてその城砦集落(じょうさいしゅうらく)の中心にシャーマニズムを統治に活用する部族のリーダー・御門(みかど)の住居としての屋敷が設けられ、時を経てその地が聖域として神格化されて「神社に成った」と推測するのである。

つまり、門構えがある砦状の屋敷を持つ有力者(征服部族長)の象徴が、御門(みかど)と言う「尊称だった」と考えられる。

逆説的に推測するに、「門を持つ屋敷」は、有力者にしか持つ事は許されなかったのでは無いだろうか?

また、そうした部族長の一部が支配域を広げて国主(くにぬし・王/臣王)に成長し、国主=御門(みかど)と成り、多くの国主(くにぬし)=王(おう)が集まって大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ・後の帝/みかど)を選出した。

御門(みかど)が有力者(征服部族長)の尊称であるから、その屋敷の門が独特の権威を持つ。つまり御門(みかど)は当初一人ではなく地域地域で大勢居た。

そして、その有力者(征服部族長)は、被支配者統治の為に神格化して行く。

有力者(征服部族長)の砦状の屋敷も神域化されて、鎮守氏上が鎮守氏神に成って初期の神社の様式が出来上がった。

当初、「社(やしろ)」は神の降臨する為の場所だった。

つまり、神の声(御託宣)を頂く為の祭場だったのである。

所が、何時の頃からか「社(やしろ)」とは建て物であり、神はそこに「常在するもの」と言う解釈に変化して行った。

この辺りに氏神(氏上)様のカラクリがある。

氏神(氏上)様の屋敷が社(やしろ)に成り、敷地が御神域に成って、精神的にも冒(おか)す事出来ない権力と成った。

わが国独特の建造物として、鳥居(とりい)がある。

つまり、御門(みかど)として独特の権威を持つ鎮守氏上の屋敷の門が、神格・神域化して殊更権威ある物としての特別な門「鳥居(とりい)」の様式が、時間を掛けて完成されて行った。

まぁ、判りやすく言えば、氏神(うじがみ・氏上)の屋敷兼砦の門が、権威を得て「鳥居に成った」と言う事である。

ちなみに、御門(みかど)が部族長或いは部族王の尊称であれば、安倍氏・貴族・土御門家(つちみかどけ)は紛れも無く土族(つちぞく)の長(王)であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)勾玉(まがたま)を祭祀に用いた縄文人(蝦夷族)の長に違いないのではないか?

また、古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説としての語学的酷似点としては、ヘブライ語の「ミコト・ミカド」の意味は「神々・天皇・貴人」の事を指す所から、ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説との類似を指摘している。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:09 | Comments(0)  

妙見宮(みょうけんぐう)

初期の渡来信仰として、妙見信仰の果たした影響は、計り知れない。

さて、渡来前の妙見信仰で有るが、妙見様の系譜は七仏八菩薩・諸説の一で菩薩、十二面観音菩薩*(世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一面密教として隠されている。)

が陀羅尼神(ダラニシン・妙見信仰)で、神格は天一星神(北斗・北極星神)である。

およそ二百年前までの人間界では、羅針盤(磁石)が無かった時代が続いていた。

アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民族は、道を間違えれば死を意味した。

砂漠を旅する民にとって、方角の分かる北極星はなくてならないものであるが、気象学的に北極星は見える日ばかりではない。

北極星を待ち望む気持ちが「神」としての信仰の形を取ったのであろう。

これが遊牧民経由でインドに伝わり、仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪(妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれた。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:04 | Comments(0)  

妙見信仰(みょうけんしんこう)

北斗・北辰妙見信仰は、北極星が天体の中で不動の位置に見え、方位を示す「みちしるべ」として世界中で神格化され、その古代妙見信仰が五百年代から六百年代にかけて渡来人と伴に日本列島・大和合の国に渡来した。

妙見とは「優れた目を持つ」の意味だが、この優れた目とは「見通せる」に通じ、役小角(えんのおずぬ)が成立させた初期の陰陽組織の修験道の根幹を為す信仰として活用された。

陰陽修験道は、有る密命を持って列島の隅々に活動範囲を広げて行く。

信仰が大衆に広まるには、「俗」にまで降ろしてた教えでないと中々理解されない。

この妙見信仰(みょうけんしんこう)、現代では織姫と彦星が年に一度の逢瀬を愉しむ「七夕伝承の祭り」として無難な形の庶民行事として残っている。

実はこの辺りの「俗」が妙見信仰が民衆に受け入れられた重要ポイントなのだが、妙見信仰には実にエロチックな内容の「祭事・北辰祭」が存在した。

つまり「北辰祭」が後に全国に広がって、庶民の間で俗に性交の事を「お祭りをする」と言われるくらい当時としては一般的な習俗で、その後明治維新政府が取り締まるまで信仰行事として続いた「暗闇乱交祭り」の原型だったからである。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。

大和朝廷は、七百九十六年(延暦十五年)に「風紀の乱れ」を理由に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止する。

所が禁止から僅か十年余りで、八百六年に空海(弘法大師)が唐から帰国して高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山すると、北辰妙見信仰を取り込んで「妙見大菩薩」と言う真言密教の仏様に迎え入れる。

日本の真言宗が、真言陀羅尼(マントラダーラニー/しんごんだらに)を唱え、大日如来(本尊)を念じる教義であるが、実は空海(弘法大師)が中国大陸から持ち帰った教義を総合的に整理して教義とした為、空海(弘法大師)が持ち帰った教義の中に北辰妙見信仰と仏教が中国大陸で結び付いた「妙見大菩薩信仰/陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」が含まれていたからである。

この北辰妙見信仰は、百三十年余り以前に初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっていた為、真言密教と修験道は一体化して行き東密修験道は総本山金剛峰寺(真言宗)を本拠地に、そして同時期に帰国した最澄(伝教大師)天台宗を創建すると同じく台密修験道として比叡山延暦寺(天台宗)を本拠地として融合する。

初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

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◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:49 | Comments(0)