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安康大王(あんこうおおきみ/天皇)

安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)は、允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の第二皇子・穴穂皇子(あなほのみこ)である。

次代となる雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)とは同母にあたる忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)で、応神大王(おうじんおおきみ第十五代天皇)の皇子・稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の皇女である。

安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は、「宋書」・「梁書」に記される「倭の五王」中の「倭王・興」に比定されている。


允恭四十二年一月に允恭大王(いんぎょうおおきみ)が崩御する。

第一皇子である皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)には近親相姦の前科が有った為に群臣は皆従わず、同母弟の穴穂皇子(あなほのみこ)の側に付いた。

木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の近親相姦とは、同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と情を通じ公に成った事で廃太子されている。


木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は穴穂皇子(あなほのみこ)を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ。

しかし穴穂皇子(あなほのみこ)が率いる兵に包囲され、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の計らいで戦は避けられたが、軽皇子(かるのみこ)は自裁した。

尚、別説として「古事記」では「伊余湯=伊予湯(いよのゆ:愛媛県松山市)に流罪となった」と記される。


こうして、穴穂皇子(あなほのみこ)は允恭四十二年十二月に践祚(せんそ/天子の位を継ぐ)し、安康大王(あんこうおおきみ/天皇)として即位した。

安康元年、安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は根使主の讒言を信じて大草香皇子(おおくさかのみこ/仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫(なかしひめ)=中磯皇女(なかしのひめみこ)を皇后に立てた。


安康三年八月九日、安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は中蒂姫(なかしひめ)の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。

安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は皇太子を指名する事なく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ/履中大王・りちゅうおおきみ/天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。

「古事記」と「旧事紀」には享年五十六歳、「帝王編年記」に享年五十四歳と伝えられる。


大王(おおきみ/天皇)が暗殺されたのは、他に崇峻大王(すしゅんおおきみ/第三十二代天皇)の例がある。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-07-31 15:23 | Comments(0)  

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)は、大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)とも、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも呼ばれる。


雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は、「宋書」、「梁書」に記される「倭の五王」中の倭王・武に比定される。

その倭王・武の上表文には「周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されている」とされている。

例えば、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「隻加多支鹵大王」と読め、即(すなわ)ちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。

日本書紀」の暦法が「雄略紀」以降とそれ以前で異なること、「万葉集」や「日本霊異記」の冒頭に雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)が掲げられている。

その事から、まだ朝廷としての組織は未熟では在ったものの、雄略朝に於いてヤマト王権の勢力が拡大強化された事が、「歴史的に画期で在ったと古代の人々が捉えていた」とみられる。


記紀によれば、安康三年八月九日、安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)が、幼年の眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたとする。

安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)は大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺害し、その妃である中蒂姫命(なかしのひめみこ/長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。

中蒂姫(なかしのひめみこ)は大草香皇子(おおくさかのみこ)との子である眉輪王(まよわのおおきみ)を連れており、これが眉輪王に安康大王(あんこうおおきみ)が殺害される直接の原因となった。


記紀によれば、この眉輪王(まよわのおおきみ)、父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が罪無くして安康大王(あんこうおおきみ)に誅殺された。

その後、母の中蒂姫命(なかしひめのみこと)は安康大王(あんこうおおきみ)の皇后に立てられ、眉輪王(まよわのおおきみ)は連れ子として育てられた。

安康三年(四百五十六年)八月、年幼くして楼(たかどの)の下で遊んでいた眉輪王(まよわのおおきみ)は、安康大王(あんこうおおきみ)と母・中蒂姫命(なかしひめのみこと)の会話を残らず盗み聞いて、亡父が安康大王によって殺された事を悟り、熟睡中の安康大王を刺殺する。

この「眉輪王の変」当時、眉輪王(まよわのおおきみ)の年齢を「古事記」では七歳とあるが誤記と推定されている。


安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)が、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の子である大草香皇子(おおくさかのみこ)に、妹の草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を同母弟である即位前の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)の妃に差し出すよう命令する。

大草香皇子(おおくさかのみこ)と草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は、父系の叔父と叔母にあたる。

命令した際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣(ねおみ)が、大草香皇子(おおくさかのみこ)の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りする為に、安康大王(あんこうおおきみ)に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言(ざんげん)をしている。


安康大王暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/後の雄略大王・ゆうりゃくおおきみ)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を斬り殺(生き埋め説あり)する。

次いで坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王(まよわのおおきみ)をも殺そうとした。

この二人は、豪族・葛城氏の葛城円宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/雄略大王)は三人共に焼き殺してしまう。

さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢大王 ・顕宗大王の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、十一月月にヤマト王権の大王の座に就いた。


雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は即位後、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)に求婚する道の途中で、志貴県主(しきあがたぬし/参考:志貴県主神社)の館が「鰹木を上げて皇居に似ている」と何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。

その白犬を婚礼のみやげ物にして、雄略大王は草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を皇后とする。

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣(おおおみ)に、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した。


雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させる事であった。

特に最大の地域政権・吉備氏に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。

具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進める。

さらに雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋(おおとものむろや)らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした。

「日本書紀」には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)の豪族を討伐した記事がある。


雄略二十二年一月一日、白髪皇子(しらかのみこ/後の第二十二代天皇・清寧大王/せいねいおおきみ)を皇太子とし、翌二十三年八月、雄略大王は病気の為に崩御した。

雄略二十三年を機械的に西暦に換算すると四百七十九年となる。

しかし梁書によると、梁の武帝は五百二年、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)に比定される倭王・武を征東将軍に進号している。

この解釈としては、実際の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、「雄略帝=倭王武の比定」が誤っているとする見解がある。

雄略帝は、即位後も人を処刑する事が多かった為、後に大悪天皇と誹謗される原因となっている。

だが、大悪天皇の記述は武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)にも見られる事から、両者は同一人物ではないかとの別説もある。


記紀に於いては、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)が仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇后となる。

その娘の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の皇后となり欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)を産んでいる事から、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。

ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-07-29 15:51 | Comments(0)  

武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)

小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は、仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を父母に持ちこの世に生を為したとされる。

仁賢七年正月三日に、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は立太子する。

仁賢十一年年八月八日に仁賢大王(にんけんおおきみ)が崩御した後、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が国政をほしいままにした。

重臣・大伴金村(おおとものかなむら)などは、それを苦々しく思っていた。


小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘・影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛(かげひめ)は既に大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)の子・平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。

海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣(うたがき)に於いて鮪(しび)との歌合戦に敗れた太子は怒り、重臣・大伴金村(おおとものかなむら)をして鮪(しび)を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させる。

太子は、武烈一年十一月には大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)をも討伐させた。

その後太子は、武烈一年十二月に即位して、武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)を名乗る。

武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)は、泊瀬列城(はつせのなみき)に都を定め、大伴金村(おおとものかなむら)を大連(おおむらじ)とした。

武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)には子がなかった為、御子代として小長谷部(おはせべうじ/小泊瀬舎人)を置いたという。

武烈八年十二月八日に、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)は後嗣なく崩御した。


なお、「日本書紀」は、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)の異常な行為を記して居るが、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)による悪逆非道の記述は、「古事記」には一切見られない。

「日本書紀」には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる大王(おおきみ/天皇)として描かれている。

その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。

この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の即位を正当化する意図が「日本書紀」側にあり、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)を暴君に仕立てたとする説が一般的である。

事実「古事記」には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体大王・天皇)が皇位継承者として招かれた事しか記述されていない。

また、大王(おおきみ)の御名・小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)の御名(大鷦鷯尊)と雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したとする説がある。

この辺りに、継体大王(けいたいおおきみ)の皇統を正当化する意図があり、聖帝・仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。


「日本書紀」には、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘の影媛(かげひめ)をめぐって、平群臣鮪(へぐりのおみしび)と歌垣(うたがき)で争った事が記され、それに敗れた太子は重臣・大伴金村に命じて鮪(しび)を討ち取らせたと言う。

ところが、この歌垣の場面は「古事記」に、袁祁王(をけのみこ、後の顕宗天皇)が菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)をめぐって、志毘臣(しびのおみ)=日本書紀の平群鮪(へぐりのしび)に相当と争った事として記されている。

つまり、歌垣事件に出てくる皇子も女も、全く別の設定になっている。

何れが原伝承かの判断は分かれるが、少なくとも「古事記」と「日本書紀」とでは、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)の伝承にかなりの食い違いが見られ、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)自身が実在したかどうかについても疑問が残る。

そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

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by mmcjiyodan | 2017-07-28 08:21 | Comments(0)  

舒明大王(じょめいおおきみ)

先代の推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、六百二十八年四月十五日(在位三十六年余り)に崩御した時、継嗣(けいし=あとつぎ)を定めていなかった。

重臣・蘇我蝦夷(そがのえみし)は群臣に諮(はか=意見を尋ね)ってその意見が田村皇子(たむらのみこ)と山背大兄王(やましろのおおえのおう)に分かれている事を知り、田村皇子を立てて大王(おおきみ/天皇)にした。

これが舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)である。

これには蘇我蝦夷(そがのえみし)が権勢を振るう為の傀儡(かいらい=あやつり人形)にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避ける為に蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。

また近年では、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の嫡男である敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の直系・田村皇子(たむらのみこ)と、庶子である用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の直系・山背大兄皇子(やましろのおおえのおう)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れた為に、蘇我蝦夷(そがのえみし)はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。


舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)の后妃は、後に皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)として即位し、後に重祚して斉明大王(さいめいおおきみ第三十七代女帝)として即位する宝姫王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)である。

ともあれ、舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)の時代、政治の実権は蘇我蝦夷(そがのえみし)にあった。


舒明大王(じょめいおおきみ)は在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。

唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、高向玄理と僧侶の霊雲、旻、清安が帰国した。

舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)在位中は、百済と新羅からの使節も訪れている。

舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)は、四十九歳で崩御と伝えられている(本朝皇胤紹運録・一代要記)が、古い史料による確認は困難である。


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by mmcjiyodan | 2017-06-30 18:48 | Comments(0)  

蘇我蝦夷(そがのえみし)

蘇我蝦夷(そがのえみし)は蘇我馬子(そがのうまこ)の子で、母は物部守屋(もののべのもりや)の妹・太媛(ふとひめ)である。

蘇我蝦夷(そがのえみし)は、飛鳥時代の有力豪族・貴族・大臣として、推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)末年から皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)の御代にかけて権勢を振るう。

侮蔑(ぶべつ)蛮族扱いだった蝦夷(えみし)を、わざわざ名に用いるのは、蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である。

推古大王(すいこおおきみ)の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古大王(すいこおおきみ)の遺勅として田村皇子を舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)として即位させた。

有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王(やましろのおおえのおう)がいたが、蘇我蝦夷(そがのえみし)は山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を殺害した。

舒明大王(じょめいおおきみ)の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。

また蘇我蝦夷(そがのえみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)に紫冠(冠位十二階最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と為す。

子で入鹿(いるか)の弟を物部大臣(もののべおおおみ)とし、屋敷を宮上の門(みやかみのみかど)と呼ばせるなど、蘇我蝦夷(そがのえみし)自らを大王(おおきみ)に擬する行為があった。

一方で子の入鹿(いるか)は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。

六百四十三年入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極大王(こうぎょくおおきみ)の次期大王(おおきみ/天皇)に擁立しようと望んだ。

その為には有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考え、巨勢徳多(こせのとこた)、土師娑婆連(はじのさばのむらじ)の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮(いかるがのみや)を攻めさせた。

山背大兄王は王子と共に自殺、上宮王家は滅亡した。

六百四十五年、「乙巳の変(いっしのへん)」で皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)の御前で入鹿(いるか)が殺害されると、蘇我蝦夷(そがのえみし)のもとに与する者が集まった。

だが翌日、蘇我蝦夷(そがのえみし)は、入鹿(いるか)の屍(むくろ)を前にして、邸宅に火をかけ、五十九歳で自害した。


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by mmcjiyodan | 2017-06-30 18:45 | Comments(0)  

皇統と鵺(ぬえ)の影人

本来、伝説上の「鵺(ぬえ)」は、土蜘蛛(つちぐも)や鬼(おに)と同様に大陸から先進文明を携えて渡来した部族で成立した大和政権が、ネイテブジャパニーズ(先住民)蝦夷族(えみしぞく)を、蛮人として扱った呼称である。

それ故、当初の「鵺(ぬえ)」は大和政権にとっては抵抗勢力で、皇統(大和朝廷)に仇(あだ)なす妖怪として伝承された存在だった。

そしてその「鵺(ぬえ)」は、平安末期頃には「御所に仇為(あだな)す妖怪の物語」として伝えられる。


しかし時代が下がると、蝦夷族(えみしぞく)の抵抗は少なく成り、それよりも皇統(大和朝廷)を利用して権力を得ようと言う者が渡来した部族の内より現れる。

最初は虎の威を借りる為だったかも知れないが、やがては皇統をも利用して権勢を振るう者が新しい「鵺(ぬえ)」として出現する。

その「鵺(ぬえ)」こそ、天皇を操(あやつ)り、又は蔑(ないがし)ろにして権力を欲しいままにする歴史の妖怪達である。

小説・皇統と鵺の影人」は、皇統を蔑(ないがし)ろにして権勢を振るう「鵺(ぬえ)」とそれと戦う皇統の「影人(かげひと)」との物語である。

ただ、「鵺(ぬえ)」に戦い勝った「影人(かげひと)」が、次の「鵺(ぬえ)」となる歴史を繰り返す永い永い物語が、「皇統と鵺の影人」である。

この「鵺(ぬえ)」の事は、各時代の太閤や将軍などの権力掌握者から、太平洋戦争の戦前・戦中の内閣、ヒヨットすると戦後の政治家にも当て嵌(は)まるのかも知れない。

お勧め関連小論
日本人の祖先は何処から来たのか?
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族

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by mmcjiyodan | 2017-06-02 12:11 | Comments(0)  

欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)

欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)から分かれた皇統傍系出自の父・継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の子である。

継体大王(けいたいおおきみ)と仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との子である。

欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、母に仁賢大王(にんけんおおきみ)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を持つ血筋として父・継体大王の皇統の歪みを解消した。

大王(天皇)が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の安閑大王(あんかんおおきみ)宣化大王(せんかおおきみ)でも、それぞれ手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。

さらに欽明自身も、宣化大王の皇女・石姫皇女(いしひめのひめみこ)を皇后に迎えており、何重にも皇統が維持されている。

仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇の妃・光明皇后冊立まで続いた。


この欽明大王(きんめいおおきみ)の御世、大伴金村(おおとものかなむら)物部尾輿(もののべのおこし)を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)を大臣(おおおみ)とした。

大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏(兵力)と物部氏(兵器)が大連となった。

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任し執政を行った。

しかし大伴金村は、大連(おおむらじ)就任直後の五百四十年(欽明天皇元年)に失脚し、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。

その翌年、五百四十一年(欽明天皇二年)に、欽明大王は大連(おおむらじ)・蘇我稲目(そがのいなめ)の娘である堅塩媛(きたしひめ)や小姉君(おあねのきみ)を妃とする。

この蘇我氏の娘達が生んだ三人の弟・妹(用明推古崇峻)が、計四十年間も大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれた。


詳しくは小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:27 | Comments(0)  

仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇)

仁賢大王(にんけんおおきみ・第二十四代天皇)の即位には、流浪と復権と言うドラマチックな物語が伝えられている。

仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)は、古墳時代大王(天皇)で履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子・億計王(おけのおう)である。

父の市辺押磐皇子が、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一第天皇)に殺されると、弟の弘計王(こうけいのおう/後の顕宗大王/けんぞう・天皇)と共に逃亡して身を隠した。

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇二年に、弟王・弘計が宴の席で王族の身分を明かした。

それを伝え聞いた清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に二王を宮中に迎え入れ、四月に兄王・億計王(おけのおう)が皇太子となった。

清寧天皇五年に清寧大王(天皇)が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇として即位する。

引き続き億計王(おけのおう)が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

その後、即位した弟王・弘計の顕宗大王(けんぞうおおきみ)が、わずか在位三年で崩御した為、億計王が仁賢天皇元年一月に大王(おおきみ/天皇)に即位した。

仁賢大王(にんけんおおきみ)は、父を殺した雄略大王(おおきみ/天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后に迎え入れる。

理由として、仁賢大王(にんけんおおきみ)自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。


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by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:24 | Comments(0)  

非人穢多(ひにんえた)・部落差別

日本には、山窩(サンカ・サンガ)と源流を同じくする非人穢多(ひにんえた)と言う被差別階級が永い間存在した。

被差別階級・非人穢多(ひにんえた)の長である穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許されたていた。

江戸期の非人穢多(ひにんえた)差別制度は、明治維新後の部落民差別として残って行く。


狩猟の民である先住民(蝦夷族/エミシ族)山窩(サンカ・サンガ)は、仏教の教えである「殺生の禁止」を生業としていた。

しかし大和朝廷では、仏教を国家統一の為に採用して啓蒙していたので、「殺生の禁止」を生業としていた山窩(サンカ・サンガ)は、永く非主流の狩猟遊民として定住もままならない存在だった。

この歴史現象を公平に判断すると、この仏教の教えである「殺生」を禁じた教えを渡来民族政府だった大和朝廷が採った事は、日本列島運営の政治的な計算も在った筈である。

正直大和朝廷政府は、原住民族である先住民(蝦夷族/エミシ族)の抵抗には平安末期まで苦労していた。

それでも時を費やしながら、先住民(蝦夷族/エミシ族)の末裔である賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)を含む平民にも、仏教の教えは徐々に定着して行った。

現にこの「仏教化政策」は成功し、四足動物の建前上での食肉禁止は明治維新までほぼ国民の多数合意されていた。

その食肉禁止の文化も、明治維新の文明開化で薄れて行った。

基を正すと歴史経過の中で取り残されたに過ぎない一部の部族文化を、「自分達と価値観が違うから」と差別するは、最初から間違っていたのだ。

但し一部の賤民(せんみん)部落に残った四足動物処理技術文化への差別は、一部の心無い人々の意識の中に現在でも残っているのは残念である。


蝦夷(エミシ)関連小論・【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】を参照下さい。
蝦夷(エミシ)関連小論・【ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-04-23 19:45 | Comments(0)  

光明皇后(こうみょうこうごう)

光明皇后(こうみょうこうごう)は、奈良時代聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇后として、他に類を見ない程の大きな足跡を残している。

藤原不比等県犬養橘三千代(あがたいぬかいのみちよ)の女子で、光明皇后(こうみょうこうごう/光明子)は聖武天皇(しょうむてんのう)の母である文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人の藤原宮子とは異母妹である。

つまり聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の母親の妹である光明子(光明皇后)が、異母姉の子と結婚した事に成る。

諱は安宿媛(あすかべひめ)とされた。

通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)である。

光明皇后(こうみょうこうごう)は、皇族以外から立后する先例を開いた后妃である。


光明皇后(こうみょうこうごう)は、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代/首皇子/おびとのみこ)の皇太子時代に結婚し、七百十八年(養老二年)、阿倍内親王(後の女帝孝謙天皇・称徳天皇)を出産する。

七百二十四年(神亀元年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。

七百二十七年(神亀四年)、皇子・基王(もといおう)を生んだ。


七百二十八年(神亀五年)、皇太子に立てられた基王(もといおう)又は基皇子(もといのみこ)が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。

長屋王の変後、七百二十九年(天平元年)に皇后にするとの詔(みことのり)が発せられた。

この詔(みことのり)は、王族以外から立后された初例で、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。


光明皇后は、仏教を篤く信じ、貧しい人に施しをするための施設・悲田院と 医療施設である施薬院を設け、慈善を行った。

聖武天皇の遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。

さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わり、東大寺大仏、国分寺、国分尼寺の造立に深いつながりをもつ。


娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。

七百五十六年(天平勝宝八年)、夫の聖武太上天皇が崩御する。

その二年後に、光明皇后は皇太后号が贈られた。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、その娘・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)が仏教に熱心に帰依して仏教を国家統治の中心に置いていた。

七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后は崩御し、佐保山東陵に葬られた。


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by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:11 | Comments(0)