藤原宮子(ふじわらのみやこ)は、文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人である。
宮子(みやこ)は、藤原不比等の長女として藤原を名乗るも異説が在る。
文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)が紀州御坊へ療養の旅をしていた時、美しい海女を見初め、手元に置くことを欲したが、身分の問題が在る。
その対処として権力者・藤原不比等の養女に一旦し、藤原の貴種として嫁入りさせたと言う説が存在する。
その異説を黙殺し不比等の実娘とすれば、母は賀茂比売(かものひめ)である。
異母妹で聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇后・光明皇后とは義理の親子関係にも当たる。
六百九十七年(文武天皇元年)八月、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の譲位により即位直後の文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人となる。
なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘二人も嬪(ひん/寝所に侍する女官)となっている。
宮子(みやこ)が文武帝夫人となった背景には、阿閉皇女(あへのひめみこ/女帝・元明天皇)付き女官の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在が在った。
県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、持統帝の末頃に藤原不比等と婚姻関係になったと考えられ、その後押しで宮子(みやこ)が内裏に入ったと推測されている。
それまで少壮官僚であった藤原不比等は、草壁皇子の第一皇子で母は元明天皇の文武帝が即位するに伴い中央政界に台頭している。
ただし、夫人や嬪(ひん/寝所に侍する女官)の制度化は大宝令であったとする説では、宮子(みやこ)の夫人号は後世の脚色だったとされる説が存在する。
つまり藤原氏(宮子)・紀氏・石川氏は当初は「妃」で令制導入に基づいて嬪(ひん/寝所に侍する女官)とされ、後に皇子を生んだ宮子(みやこ)が夫人とされたと解する見方もある。
七百一年(大宝元年)、宮子(みやこ)は首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。
文武帝や父・藤原不比等等肉親の死を経て、七百二十三年に従二位に叙される。
首皇子(おびとのみこ)が即位した翌年(七百二十四年)に宮子(みやこ)は正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、七百三十七年にやっと平癒する。
なお、宮子(みやこ)の病気回復の時に関わった僧侶が玄昉であり、橘諸兄のもとで玄昉(げんぼう)が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。
宮子(みやこ)は、息子・文武帝と三十六年ぶりに対面した。
そして、孫・阿倍内親王(孝謙天皇)が即位した七百四十九年には、宮子(みやこ)は太皇太后の称号を受け、七百五十四年に推定七十歳前後で崩御した。
宮子(みやこ)は、長期の病気にかかりながらも跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした。
しかし跡継ぎの聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)には、第二皇子安積親王(あさかしんのう)薨去後はついに男子の跡継ぎに恵まれなかった。
一族である藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、宮子(みやこ)崩御後二十年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。
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| 2017-04-03 03:07
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文武大王(もんむおおきみ/第四十代天皇)は、皇太子のまま亡くなった草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男である。
文武(もんむ)の母は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇女にして持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の異母妹で、後に元明大王(めいげんおおきみ/第四十三代天皇)となる阿陪皇女である。
文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の幼少期は、父・草壁が皇太子のまま亡くなり即位していない為、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられる筈だった。
しかし祖母である持統天皇の後見もあってか、文武(もんむ)は、立太子以前から皇子の扱いを受けていた。
父・草壁が六百八十五年五月七日(持統天皇三年年四月十三日)に亡くなり、六百九十六年(持統天皇十年七月十日)には伯父にあたる高市皇子も薨じた。
ために、六百九十七年三月十三日(持統天皇十一年三月十三日)に、文武(もんむ)は立太子する。
立太子から五カ月余り、六百九十七年八月一日(文武天皇元年八月一日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、六百九十七年九月七日(九月十七日)即位の詔(みことのり)を宣した。
文武帝は、当時十五歳という先例のない若さだった為、先帝・持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。
文武帝がこの若さで即位した理由を説明するには皇太子になった経緯がある。
現存日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。
その際に弘文天皇(大友皇子)の第一皇子・葛野王(かどののおう)が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。
ここで天武天皇の第九皇子・弓削皇子(ゆげのみこ)が何か発言をしようとしたが、葛野王(かどののおう)が叱り付けた為、そのまま口をつぐんでしまったとされる。
持統天皇は、この葛野王(かどののおう)の一言が国を決めたと大変喜んだとされる。
これには、持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかった事があるとされる。
このような論争が起こった事には、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てた。
その軽皇子(文武帝)の成長を待つ間は、時間を稼ぐ為に持統帝が自ら皇位についた。
ただ、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子が他に居た。
彼らは、草壁皇子の死後皇位につく事を期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。
この事から考えると、天武天皇の皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。
これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・孫へと行われるべきという考え方の二通りがある為とされる。
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| 2017-04-03 03:01
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草壁皇子(くさかべのみこ)は飛鳥時代の皇族で、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇/第四十一代女帝)の皇子である。
草壁皇子の妃は天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇女で、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の異母妹である阿陪皇女(後の第四十三代女帝/元明天皇)である。
草壁皇子は、元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)・吉備内親王・文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の父である。
草壁は、六百六十二年(天智天皇元年)に誕生、六百七十二年(天武天皇元年)、壬申の乱が勃発すると大津皇子ら他の兄弟達と共に両親に同伴する。
六百七十三年(天武天皇二年)二月二十七日に飛鳥浄御原宮で天武天皇(てんむてんのう/第四十代)が即位する。
六百七十九年(天武天皇八年)には、草壁皇子は吉野の盟約で事実上の後継者となり、六百八十一年(天武天皇十年)二月に立太子する。
おそらく、母の鸕野讃良(うののさららのひめみこ)皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、大田皇女の息子である大津皇子を押さえ皇太子になったものと推測される。
六百八十六年(朱鳥元年)七月には重態に陥った天武天皇(てんむてんのう/第四十代)から母と共に大権を委任され、九月には天武帝が崩御する。
翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。
だが、鸕野讃良皇后(うののさららのひめみこ)は草壁皇子を直ちに即位させる事はしなかった。
草壁皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。
なお、少数説であるが、草壁皇子の立太子そのものを文武天皇(もんむてんのう/第四十二代・軽皇子)の即位を正当化する為に後世作為されたものとする説在り。
鸕野讃良(うののさららのひめみこ)皇后が、草壁皇子に天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある。
草壁皇子は、皇位に就くことなく六百八十九年(持統天皇三年)四月十三日薨去する。
七百五十八年(天平宝字二年)、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)即位後のに草壁皇子は、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)の称号が贈られた。
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| 2017-04-03 02:57
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中川清秀(なかがわきよひで)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、千五百四十二年(天文十一年)摂津国福井村中河原(現・大阪府茨木市)に生まれた。
本姓は源氏を名乗り、清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子の明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と家系を称した。
清秀(きよひで)の幼名は虎之助、通称は瀬兵衛(せびょうえ)、父は中川重清、母は中川清村(重利)の娘である。
はじめ摂津国人であった池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくると清秀(きよひで)はそれに従った。
だが、後に主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると、清秀(きよひで)は一時信長と敵対する。
千五百七十二年(元亀三年)、同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を白井河原の戦いにて討ち取る。
戦後、清秀(きよひで)は、この戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった。
摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると、清秀(きよひで)は荒木村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。
後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたがうが、千五百七十八年(天正六年)村重が信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)、共に信長に敵対する。
しかし、織田軍が大挙して攻めてくると右近と共に降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った。
その後清秀(きよひで)は、丹羽長秀や池田恒興旗下で転戦する。
千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。
千五百八十三年(天正十一年)、清秀(きよひで)は賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦した。
その賤ヶ岳の戦いに於いて清秀(きよひで)は、大岩山砦を右近、三好信吉らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの四十二歳にて戦死した。
子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫、妹は古田重然(織部)室である。また、キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる。
家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
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| 2017-03-20 15:12
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木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、天照大神(アマテラス)の孫である天孫・ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)の妻とされる。
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)には、石長比売(イワナガヒメ/磐長姫)と言う醜い姉がいた。
そして長寿の神々と比べ、天孫ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)とその子孫の天皇の寿命が神々ほどは長くない理由をこう伝えている。
九州南部に勢力を持っていた隼人族(ポリネシア系縄文人)のオオヤマツミを父に持つ木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、日向国に降臨した天照大神の孫・天孫ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)と、笠沙の岬(鹿児島県川辺郡笠沙町にある野間岬)で出逢い求婚される。
この出会い伝説は、宮崎県、鹿児島県内にも伝説地が存在する。
咲耶(さくや)の父・オオヤマツミはニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)の求婚を喜んで、姉のイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)と共に差し出した。
処が、ニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)は醜いイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚する。
オオヤマツミはこれを怒り、
「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけい)を立てたからで、コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」
と告げたとされる。
このイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を送り返し、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とだけ結婚するエピソードこそ、天から降臨した天孫(神)と人間である皇統に存在する寿命との矛盾を隠す為の伝説である。
つまり「記紀神話(天孫降臨)」では、天皇の寿命が人間に近い矛盾(むじゅん)の言い訳を「天孫であるニニギノミコト(瓊々杵尊/ににぎのみこと)がイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を娶らなかったから」と理由付けているのだ。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
◆【性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。
関連記事
小論・【世界文化遺産・富士山名称の謂(いわ)れ】を参照下さい。
小論・【天孫降(光)臨伝説と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)】を参照下さい。
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by mmcjiyodan
| 2017-03-19 16:04
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歴史を遡(さかのぼ)ると、「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して粉飾された情報操作を実行する政治家(為政者)が多過ぎる。
政治家(為政者)は、日頃から権謀術策の権力争いに塗(まみ)れていると、本来尊敬されるべき立場なのに「嘘を言う恥ずかしさ」など忘れてしまうのかも知れない。
そしてかれらは、「開き直って言い張れば、情報操作は国民を操る手法(テクニック)として、事実通用する。」と考えている。
例えば選挙公約であるが、出来もしない公約を無責任に言い立て、選挙が終われば当選してもコロリと公約を忘れるのが政治家の特技である。
「古事記・日本書紀」の歴史捏造(れきしねつぞう)が、「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である。
古事記・日本書紀は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された。
桓武大王(かんむおおきみ・第五十代天皇)の御代に、時の大和朝廷(やまとちょうてい)が、統治の為に画策した記紀神話(古事記・日本書紀)と言うフエィクニュース(嘘ニュース)を 、日本全国に拡散させた組織がある。
その組織こそが、十代前の天武大王(てんむおおきみ・第四十代天皇)より密命を帯びた役小角(えんのおずぬ)を始祖とする陰陽修験者組織で、いわゆる説法を持って列島の隅々の民にまで皇統の正統性を神話を持って知らしめる目的を持っていた。
明快に言ってしまえば、記紀神話(古事記・日本書紀)の伝説は「渡来氏族に依る日本列島経営の為の陰謀」なのである。
余談だが、この「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である「古事記・日本書紀」の捏造(ねつぞう)記事を正しい歴史とし、それを根拠にコメントする不勉強なコメンテーターに解説する資格はない。
しかしながら、「仁徳天皇(にんとくてんのう)」や「聖徳太子(しょうとくたいし))」のエピソードを、皇統と日本人の説話に永年使っていた方の立場にれば、心情的に「架空の人物の話」とは認め難いのかも知れない。
参考小論、【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。
戦時中の、「国民の士気を落とさない為の嘘」と正当性を言い張る「大本営発表」なども国民を操る情報操作の代表である。
そしてそれに近い嘘は、近現代の政権にも「政府発表」として日常のごとく存在する。
本来、リーダーならば思いやりを持って他人の為に泣き哀しみ、他人の為に笑い、他人の為に働かねば成らない。
それが無いから、「政治家(為政者)の全てが嘘に見える」のである。
正直言って、善人が権力者にのし上がる事など有り得ない。
つまり、元々そうした真摯な心情を持ち合わせない人間が、策略だけでのし上がって政治や企業を動かして居るからではないのだろうか?
まぁ権力者の虚像など人為的につくられた幻想で、事実は「生々しいもの」と相場は決まっている。
しかし、どうも虚飾で飾られた方が大衆受けするらしく、ウッカリとフアクト(真実)を言おうものなら、「夢を壊す」などと批難される。
それで歴史人物は、後世では功績ばかり取り上げられるが、かならず暗黒部分が陰に隠れている。
そして権力者が、多くの人権を無視している事に庶民自身が意識的に「気が付きたくない」のだから仕方が無い。
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by mmcjiyodan
| 2017-02-15 17:57
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本来の大本営(だいほんえい)は、軍部の連合大演習及び特別大演習に於いて、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。
但しここで言う大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関を指す名称である。
大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、大日本帝国の大本営が行った戦況などに関する公式発表を言う。
当初は、おおよそ現実に即していた発表を行っていた。
所が、ミッドウェー海戦の頃から海軍による損害矮小化・戦果過大化の発表が目立ちはじめ、勝敗が正反対の発表すら恒常的に行った。
「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して情報操作実行する政治家(為政者)が多過ぎる。
そうした事から、現在では「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になっている。
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| 2017-02-15 15:02
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今川氏真(いまがわうじざね)の父は今川氏の最大所領を領する繁栄を築いた今川義元で、母は甲斐国主・武田信虎の娘 定恵院である。
氏真(うじざね)は、桶狭間の戦いで織田信長によって討たれた父・義元の駿河・遠江・三河の三ヶ国を受け継いだ戦国大名であり 、第十一代の今川家当主である。
但しこの代数には諸説あり初めて駿河守護となった今川範国から数えた代数では第十代、家祖・今川国氏から数えると氏真(うじざね)は第十二代目になる。
千五百三十八年(天文七年)、父・義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれ、幼名は龍王丸(りゅうおうまる)で ある。
千五百五十四年(天文二十三年)氏真(うじざね)十六歳の時、相模の国主・北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。
千五百五十八年(永禄元年)、氏真(うじざね)は父・義元から家督を譲られ駿河や遠江国に文書を発給し始めている。
但しこの時期、三河国への文書発給は義元の名で行われている。
つまり義元は、安定した駿河国と遠江国を二十歳に成った氏真(うじざね)に任せ、三河国の安定及び尾張国・美濃国の領有に専念を画したと見解されている。
ところが、義元は千五百六十年(永禄三年)五月に尾張に侵攻した義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまう。
桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。
三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなった。
西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(千五百六十三年に家康に改名)の勢力下に入った。
松平元康は今川家と断交し、信長と結ぶ事を選ぶ。
東三河でも、国人領主らは氏真(うじざね)が新たな人質を要求した事により不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間で「三州錯乱」と呼ばれる抗争が広がる。
千五百六十二年(永禄五年)旧領三河・岡崎城に入った松平元康は、尾張国主・織田信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。
氏真(うじざね)は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。
遠江国に於いても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷城主の井伊直親、曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がって行く。
謀反が疑われた井伊谷城主・井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。
ついで千五百六十四年(永禄七年)には曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。
氏真(うじざね)は、重臣・側近・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させる事ができず、逆に正俊が戦死してしまう。
その後、和議に応じて降った飯尾連竜を氏真(うじざね)は千五百六十五年(永禄八年)十二月に謀殺した。
今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、千五百六十一年(永禄四年)の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。
桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっている。
同千五百六十五年十一月に、嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においての婚姻が解消された。
同時期に武田家では、世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。
これにより甲駿関係は緊迫し、氏真(うじざね)は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行った。
武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗した為、これは決定的なものにはならなかった。
千五百六十八年(永禄十一年)末に甲駿同盟は手切に至り、十二月六日に甲斐国国主・武田信玄は甲府を発して駿河国への侵攻を開始する。
十二月十二日、薩埵(さった)峠で武田軍を迎撃するため氏真(うじざね)も、駿河国・興津の清見寺に出陣した。
だが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人二十一人が信玄に通じた為、十二月十三日に今川軍は潰走し、駿府も占領された。
氏真(うじざね)は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。
北条氏康の娘・早川殿(氏真正室)の為の乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失すると言う逃亡で在った。
しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた三河国主・徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。
十二月二十七日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、朝比奈泰朝を初めとした今川家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。
早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣する。
戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。
徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、甲斐国主・武田信玄が約定を破って遠江への圧迫を強めた為、徳川家康は氏真(うじざね)との和睦を模索する。
千五百六十九年(永禄十二年)五月十七日、氏真(うじざね)は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。
この時に今川氏真(うじざね)・徳川家康・北条氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真(うじざね)を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。
しかし、この盟約は結果的に履行される事はなく、氏真(うじざね)及びその子孫が領主の座に戻らなかった。
この朝比奈泰朝の掛川城の開城を以て、後世に戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。
掛川城の開城後、氏真(うじざね)は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った。
後、氏真(うじざね)は小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。
千五百六十九年(永禄十二年)五月二十三日、氏真(うじざね)は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲る事を約した。
また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。
駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真(うじざね)を後援する北条氏による出兵も行われた。
抗争中の駿河に対して氏真(うじざね)は、多くの安堵状や感状を発給している。
これには、氏真(うじざね)が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。
その後、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、千五百七十一年(元亀二年)頃には大勢が決した。
氏真(うじざね)は駿河の終(つい)に支配を回復する事はできなかった。
同千五百七十一年(元亀二年)十月に北条氏康が没すると、後を継いだ北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した。
同年十二月に氏真(うじざね)は相模を離れ、家康の庇護下に入った。
掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。
千五百九十一年(天正十九年)九月、山科言経の日記「言経卿記」に氏真(うじざね)は姿を現す。
この頃までに氏真(うじざね)は、京都に移り住んだと推測される。
仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真(うじざね)は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来していた。
冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていた事が記されている。
京都在住時代の氏真(うじざね)は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。
「言経卿記」の氏真(うじざね)記事は、千六百十二年(慶長十七年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。
やがて天下を取った徳川家康に召し出されて、氏真(うじざね)は五百石の旗本に抱えられる。
その後氏真(うじざね)は、五百石を加増されて都合千石の高家旗本(こうけはたもと)に処遇されて家名は残った。
氏真(うじざね)はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、千六百十三年(慶長十八年)に長年連れ添った早川殿と死別した。
千六百十五年(慶長十九年)十二月二八日、今川氏真(いまがわうじざね)は七十七歳の高齢を持って、江戸で死去した。
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by mmcjiyodan
| 2017-01-31 00:45
|
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贄(にえ)と言う文字は、「神に対する捧げ物」と言う意味が在る。
そして熟語に、生贄(いけにえ)と言う言葉がある。
つまり生贄(いけにえ)とは、「生きたままの、神に対する捧げ物」と言う意味である。
そして一方では、渡来部族が現住民族の蝦夷(えみし)を制圧して、統治の為に壮大な天孫降臨伝説をでっち上げて、支配階級(渡来部族)は「氏神(氏上)」と成った。
今までの日本史は、集団または特定の個人の利益の為に人身を犠牲にする事で、神の支援を願う概念で生きたままの贄(にえ)を捧げ、その命を絶つ事で捧げの完結と解釈されていた。
しかし氏神が地方行政官やその末裔の権力者・氏上であれば、生贄(いけにえ)の意味はセクシャルなものに変わって来る。
これを「人身供犠(じんしんくぎ)」または「人身御供(ひとみごくう)」と称して人間を神(氏上人)への生贄(いけにえ)とする礼式を言う。
古代、大和国の吉野川上流の山地に在ったと言う村落とその住民を、国栖(くず/国巣/国樔/Kunisuの音変化)と呼ぶ。
その人々を国栖人(くずびと)と呼び、宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌(ふぞくうた/地方伝承歌)を奏した。
つまり歌舞音曲と贄(にえ)と礼式(神式)は中央の宮廷や貴族社会に発祥して、地方行政官やその末裔が自らの支配地域の神社に、「神楽舞」や「人身御供(ひとみごくう)様式」として伝播実践された。
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by mmcjiyodan
| 2017-01-15 18:05
|
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興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。
六百六十九年(天智天皇八年)、藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国(やましろのくに)山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺(こうふくじ)の起源である。
壬申の乱(じんしんのらん)が在った六百七十二年(天武天皇元年)、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
七百十年(和銅三年)の平城遷都に際し、鎌足の子・藤原不比等は厩坂寺(うまやさかでら)を平城京左京の現在地に移転し「興福寺(こうふくじ)」と名付け実質的な興福寺の創建となった。
つまり興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られその後も、大王(おおきみ/天皇)や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。
不比等が没した七百二十年(養老四年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
興福寺(こうふくじ)は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かった為に手厚く保護された。
平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。
その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。
寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも八百七十年(天禄元年)に真言宗の僧・定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と千八十七年(寛治元年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉時代・室町時代の武士の時代になっても大和武士(大和四家と言う武士集団)と僧兵等を擁し強大な力を持っていた為、幕府は守護を置くことができなかった。
よって大和国は実質的に興福寺(こうふくじ)の支配下にあり続けた。
安土桃山時代に至って織田・豊臣政権に屈し、千五百九十四年(文禄四年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として二万千余石とされた。
興福寺(こうふくじ)は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。
中でも千百八十年(治承四年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。
この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉をする。
結果、平氏流(へいしりゅう) が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺(こうふくじ)側へ返却される。
消失建物の再建には、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の三者で費用を分担して復興事業が実施される事となった。
現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失した為、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。
興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
千七百十七年(享保二年)江戸時代の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。
千八百六十八年(慶応四年)に明治政府から出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺(こうふくじ)は大きな打撃をこうむった。
江戸時代は二万千石の朱印を与えられ保護された興福寺(こうふくじ)が、この廃仏毀釈で消滅の危機に立たされのだ。
子院はすべて廃止、寺領は千八百七十一年(明治四年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。
興福寺(こうふくじ)境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。
一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。
興福寺(こうふくじ)は、一時廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。
五重塔は値段には諸説あるが、二百五十円で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったと伝えられる。
ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。
興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗って華族に列し「奈良華族」と呼ばれた。
行き過ぎた廃仏政策が反省され出した千八百八十一年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許可された。
千八百九十七年(明治三十年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。
興福寺(こうふくじ)は、南都七大寺の一つに数えられ、南円堂は西国三十三所第九番札所である。
現在は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
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| 2016-12-30 09:23
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